第30弾 のむけはえぐすり 原善三郎の話 その12 キリン公園2006年10月06日 23時42分46秒


第30弾  のむけはえぐすり
原善三郎の話  その12 キリン公園

 善三郎の恩人、三井の話がもう少し続く。

 お客:「ビールをくれ!」
 ママ:「うちはキリンですが・・・」
 お客:「三井の人間がキリンなんか飲めるか、ビールはサッポロに決まっている!」

昭和62年に、アサヒのスーパードライが大ブレイクするまで、ビールのシェアはキリンとサッポロが分け合っていた。

キリンビールの起源は、元町から麦田のトンネルを越えた側、今の千代崎町にある。
 
 明治3年(1871)、アメリカ人コープランドさんが、山手123番にスプリング・バレー・ブルワリーを建て、ビール製造・販売を始めたのが、日本のビールの元祖とされている。その場所は天沼と呼ばれ、「清泉滾滾(こんこん)として崖下に湧き、気清く風軟かに、一福春園の書の如し」と写真の碑文に表現されるような、風光明媚な地である。

コープランドさんの会社は、明治18年(1885)に破産する。後藤象二郎さんや渋沢栄一さんとともに、三菱の岩崎弥太郎さんや外国人達が出資して、香港の法人会社ジャパン・ブルワリー・コンパニーとして再建される。それが三菱系と言われる所以だ。社長には外人の名前が何代か続き、長崎のグラバー亭のグラバーさんの名前も二代目にみえる。
 やがて、この会社から麒麟という銘柄のビールが発売される。麒麟のイメージが定着して、明治40年に近藤廉平さんら日本人に経営権が譲渡された時に、麒麟麦酒(株)と会社の名前も変わる。
 大正12年(1923)の関東大震災でこの山手の工場は壊滅し、再建されないまま、今は北方小学校とキリン公園になっている。
写真は、キリン公園にある麒麟麦酒開源記念碑である。子供を連れた母親が集まる小さな公園である。

 一方、サッポロビールは、ドイツで修行してきた中川清兵衛さんが、北海道開拓使に招かれ、開拓使麦酒醸造所を作ったことから始まる。
 道庁から大倉組が譲り受けたこの麦酒醸造所を、渋沢栄一さんが受け継ぎ、明治20年から札幌麦酒会社という社名に変わる。

この年は、もうひとつの麦酒会社が東京に生まれた。この会社は日本麦酒醸造といい、エビスという銘柄のビールを販売する。ビールを積み出す貨物駅を利用して山手線の駅を作り、恵比寿駅となったのはもっと後の話。この日本麦酒醸造が潰れそうになった時、再建に乗り出したのが三井物産である。以後、三井系と言われる由縁だ。

明治39年(1906)今の名前で言うと、エビスビールと、大阪麦酒のアサヒビール、サッポロビールの三社が合併して、大日本麦酒醸造という大きな会社ができ、一時は七割近いシェアを占める。それ以外の中小の麦酒会社は、明治30年頃に酒税が導入された時にどんどん潰れた。今もビール業界は税金に対してとても敏感だ。

 戦後まもなく、そんな大きな会社がビール業界を牛耳っていては自由な競争ができないと考えたGHQは、この大きな会社を朝日麦酒と日本麦酒に分けてしまう。
 日本麦酒の方は、昭和31年頃からサッポロビールの銘柄を復活させ、いっそ社名も昔に戻してしまえと、サッポロビール(株)にしてしまう。
 分かれた朝日麦酒の方は、元は明治20年の大阪麦酒会社が始まりなので、こっちは当然、住友系と言うことになる。名前もカタカナにして、アサヒビール(株)。

 かくして、初めに紹介したような会話が、どこの店でも聞かれるようになった。別にビールはサッポロに決まっているわけではない。ブランドの問題ではなく、プライドの問題。

3日楽しみたかったら2006年10月06日 23時47分34秒


 3日楽しみたかったら酒を飲みなさい。
 3年楽しみたかったら結婚をしなさい。
 一生楽しみたかったら釣りを覚えなさい。

そんな言葉が中国にあると、亡き開高健さんが書いていました。
含蓄が深いですね。

・・・でもゴルフをやってる人は
「一生楽しみたかったらゴルフを覚えなさい」だよね!