のむけはえぐすり 第37弾 原善三郎の話 その17 旧川崎銀行 (現日本興和損保ビル)2006年11月27日 20時27分43秒


のむけはえぐすり 第37弾
原善三郎の話 その17 旧川崎銀行 (現日本興和損保ビル)

 幕末の水戸藩と言えば、内紛が続き、桜田門外の変、天狗党の乱と物騒な藩経営を余儀なくされていた。その水戸藩士の中にも、加倉井砂山さんの日新塾に学んだものが何人かいる。
 下級武士出身の川崎八右衛門さんは、日新塾に入門すると間もなく、砂山さんに見込まれ、次女の世舞子(せんこ)さんと結婚した。
 経済に優れた才能を示した八右衛門さんは水戸藩の勘定方に抜擢され、虎の刻印の「とら銭」を鋳造する役所の所長となって、藩財政の建て直しに活躍した。
 
 廃藩置県の後、廻船問屋、鉱山経営などをしていた八右衛門さんは、明治7年に川崎組を興し、警視庁の為替御用達の他、千葉・茨城の為替方も勤めるまでになった。

 国立銀行が作られ始めた頃、それ以外の金融会社は、「銀行」を名乗ることができなかった。明治9年に国立銀行条例が改正され、国立銀行が設立しやすくなると同時に、私立銀行も設立可能となる。前々から私立銀行の設立を願い出ていた三井さん達は、早速三井銀行を名のる。42才の八右衛門さんは37才の安田善次郎さんと組んで、国立第三銀行を立ち上げる。ちなみに、この時、善三郎は48才。
とりあえず、トレンドは国立銀行だった。明治12年に国立銀行の設立がうち切られると、今度は普通銀行が「雨後のタケノコ」のように急増する。八右衛門さんが作った川崎銀行は、その時できた太めの一本である。

 当時の私立の普通銀行は金利を稼ぐ貸金業が主で、激しい貸し込み競争に明け暮れる。関係のない業界にまで手を広げ、ほとんど放漫経営状態。普通銀行以外に、貯蓄預金業務を中心とする小規模で、多少地味な貯蓄銀行も作られる。
 
 明治28年からの「全国の銀行数の推移」を示す表がある(横浜銀行六十年史、p21)。その表で、明治28年と銀行数が最多になった明治34年を比較する。明治28年の国立銀行の数133(明治34年は0)、特殊銀行2(5)、農工銀行0(46)、普通銀行817(1890)、貯蓄銀行91(444)と、タケノコの出具合が分かる。
 国立銀行は明治32年までにすべて普通銀行に転換し、実のない「国立」がとれ、ナンバー銀行の名前だけを残したものも多い。明治12年設立の横浜正金銀行は、正貨の流通と貿易金融の円滑化を目的として設立された政府系の特殊銀行である。明治15年設立の日本銀行は、その辺にあるタケノコとは一緒にしない。

写真は、馬車道の神奈川県立博物館(実は旧横浜正金銀行)の隣にある日本興亜損保ビルで、地上3階の外壁は大正11年に建てられた川崎銀行のものである。このビルは、川崎銀行が移転した後、昭和61年に取り壊されるまで、日本火災海上が入っていた。平成元年、外壁を残して近代ビルに建て替えられ、横浜市の歴史的建造物認定第1号になっている。

川崎銀行は昭和2年に第百銀行と合併して川崎第百銀行となり、さらに昭和11年に第百銀行と改称する。昭和18年に三菱銀行と合併し、川崎の名前が消える。昭和9年に建てられた本町3丁目の川崎第百銀行が、今東京三菱銀行となっているのにはそのような経緯があった。
 川崎銀行の系列銀行には、常陽銀行、千葉合同銀行、足利銀行がある。戦前の川崎財閥は日本火災保険を経営し、今は川崎定徳(株)として存続している。
 
 ただ、川崎汽船、川崎重工業、川崎製鉄の川崎財閥は、関西の別の川崎さんで、親戚でも何でもない。そちらのタケノコは、第十五銀行。 

参考文献
1)横浜銀行企画部横浜銀行六十年史編纂室:横浜銀行六十年史、横浜銀行、1976
2)安部編集事務所編:横浜洋館散歩 山手とベイエリアを訪ねて、淡交社、京都、2005
3)横浜シティーガイド協会編:ハマの建物探索、神奈川新聞社、横浜、2004