のむけはえぐすり 第40弾 原善三郎の話 その20 旧正金銀行(3) ステンドグラス2006年12月19日 00時08分10秒


のむけはえぐすり 第40弾
原善三郎の話 その20 旧正金銀行(3) ステンドグラス

 洋銀を、開港記念館(旧英国領事館)で見ることができた。二階展示室のケースに、一円銀と一緒に洋銀が2枚並べられていた。直径が4cm程、厚さが2mm程で、貨幣としてはかなり大きく、意外に薄かった。表には頭を左に向けた鷲が描かれ、裏の模様は黒ずんでよく分からない。黒い錆が、銀であることを証明していた。

娘はその洋銀が高騰した原因を、自分が発行した過剰な紙幣の流通がもたらしたインフレと輸入超過によるものと考えずに、外国商人による投機的取引によると考えた。そこで、適正な洋銀の取引ができるように、明治12年に横浜に洋銀取引所を設立した。だが、逆に投機目的に利用されてしまった。

 次に、銀が市場にあふれれば銀が安くなると考え、持っていた銀を市場に放出したが、砂に吸い込まれる水のようにどこかに消えてしまった。

 あくまで銀貨高騰の原因を銀貨不足にあると考えた娘は、大蔵卿大隈重信さんや福沢諭吉さんと相談して、銀貨の需要を調整する正金銀行を設立することにした。娘を助けてくれる「正金」さんは、初めは貿易一円銀を中心とする銀貨の供給と、正金銀のまともな相場を作り出すことが目的で設立された。

 発起人には中村道太さん、早矢仕有的さんほか、華族士族、銀行家22人がなった。そこには、原善三郎の名はない。私はその理由を、国立第二銀行の経営で余裕がなかったからだと考えている。
 明治13年、政府出資の正銀100万円と一般株主の正銀40万円、紙幣の160万円を資本金にして、正金銀行が本町4丁目58番に設立され、半年後に現在地に移転した。

 初代頭取は中村道太さんだが、横浜に知る人は少ない。中村さんは、早矢仕有的さんが横浜で創業した丸善の社長だった。
丸善の創業者の早矢仕さんは、美濃から上京して医業を営むかたわら、経済学に興味を持ち、福沢諭吉さんに師事した。当時横浜で流行した梅毒の治療に当たるために尾上町に居を構え、そこで洋書の輸入を始めた。その後福沢さんの薦めで、弁天町に洋書や文具を商う丸善を創業し、東京の銀座に進出した。日本で最初に株式会社となり、今も丸善書店として存続している。
早矢仕さんは区会議員、県会議員になった時、ガス局事件で高島嘉右衛門さんと対決した正義感の強い人で、官権の横暴に立ち向かった自由民権運動のはしりのような人でもあった。

 1836年に生まれた中村道太さんは、やはり福沢諭吉さんに紹介され、丸善に入社し、早矢仕さんに引き立てられて社長になった。丸善を辞めた後も、正金銀行の頭取になるまでの数年間は、生まれ故郷の豊橋に戻り、国立第八銀行の頭取をしていた。
正金銀行を辞めた後の中村さんは、東京米商会所の頭取になったが、立憲改進党の大隈重信さんに資金を流用したことで失脚してしまった。
 
 頭取も何代か代替わりし、1902年から正金銀行は借款を担当し、大陸に足がかりを築いた。日露戦争の戦費調達では外債発行に活躍し、海外に支店を展開するようになった。いつの間にか、為替銀行としては、香港上海銀行やチャータード銀行と並び称されるまでに成長した。

写真は、旧正金銀行のエントランスルームの天井のステンドグラスである。そこには、娘が子供の頃に憧れたアニメの美少女戦士セーラームーンの魔法の杖のような模様が放射状に描かれている。セーラームーンは、「月に代わってお仕置きヨ」と呪文を唱え、人々を困らせる欲張りな大人達を、その杖で懲らしめていた。
 娘が「正金」さんに助けられ、外国商人にお仕置を果たした時から、娘は自分がされて厭だったことを、今度は大陸の娘達にするようになった。オバサンになった娘は「月に代わってお仕置き」されるまで、そのことに気づかなかった。

参考文献
1)土方晉:横浜正金銀行(戦前円の対外価値変動史)、東洋経済印刷、東京、1999
2)谷内英伸:横浜謎とき散歩 異国情緒あふれる歴史の街を訪ねて、廣済堂、東京、1998