のむけはえぐすり 第46弾 原善三郎の話 その26 国立第七四銀行と野沢屋 ― 2007年02月21日 07時37分32秒
のむけはえぐすり 第46弾
原善三郎の話 その26 国立第七四銀行と野沢屋
「茂木惣兵衛」は、初代と、養嗣子の安平さんが二代目、安平さんの長男が三代目と、三代続いた。
初代の惣兵衛さんは、善三郎と同じ文政10年(1827)の生まれで、年齢が同じ。善三郎が埼玉県渡瀬村出身で、惣兵衛さんが群馬県高崎出身と、郷里も近い。
惣兵衛さんは安政6年(1859)に横浜に来て、野沢屋で働いた。店主の野沢庄三郎さんが亡くなると、野沢屋の名跡を継いだ。
野沢屋は弁天通4丁目で、善三郎の亀屋は弁天通3丁目で、店も近い。
善三郎の別荘は市立中央図書館の向かいの野毛山公園で、惣兵衛さんの別荘も野毛山迎賓館の辺りで、別荘も近い。
生糸検査所も一緒、町会所も一緒。ただ、役割は善三郎の方が表に立ち、惣兵衛さんがサブに回ることが多い。いずれにせよ、善三郎にとって惣兵衛さんは、公私ともにベストパートナーだったことがうかがえる。
明治6年(1873)の生糸売込量の2位は善三郎、4位が惣兵衛さんで、二人の取扱量は総売込量の32%を占めていた。その後、明治9年に惣兵衛さんが善三郎を抜いて1位になり、明治12年にはさらに差を広げて、ダントツ1位になった。
この惣兵衛さんの急成長を支えたのは、国立第七四銀行からの豊富な資金であった。
明治11年に国立第七四銀行が南仲通二丁目の角(三井住友銀行の裏、今の国民生活金融公庫の場所)に設立され、間もなく惣兵衛さんのメインバンクになった。
これからの話は、初代惣兵衛さんが明治27年に世を去り、善三郎が明治38年に亡くなってから後の話である。
大正7年には、横浜最大の普通銀行であった茂木銀行が、国立も第もとれた七四銀行を実質吸収する形で合併するが、ナンバー銀行の名前の方が残された。
大正9年に始まった大恐慌の際に、無理な取引で債務超過が噂されていた茂木商店が倒産し、あおりで七四銀行も破産した。
小口の一般預金者が多かった七四銀行の破産は、横浜市民への影響が大きい。そこで、第二銀行の富太郎さんや、渡辺銀行の渡辺さん、若尾銀行の若尾さんらが中心となって、破産整理にあたることになった。
大蔵大臣の高橋是清さんが政府資金の投入に際して出した条件は、整理相談役の連帯保証と、整理案に対する債権者5万4000余人の承諾書の収集という厳しいものだった。
何とかそれらを解決して、大正9年に七四銀行とその子会社の横浜貯蓄銀行の業務は、新しく設立された横浜興信銀行へと引き継がれた。
初代頭取は富太郎さんで、副頭取の井坂孝さんは、横浜火災保険の常務取締役であった。
その後、国立第二銀行も横浜興信銀行へ統合し、昭和32年には横浜銀行と改称した。
写真は、大正10年に母体が建てられ、震災後に復旧された伊勢佐木町の旧野沢屋百貨店ビルである。現在は横浜松坂屋本館になっているが、茂木商店の唯一の名残である。
富太郎さんは後日、茂木商店の破綻について、「おそらく茂木さんはノーと言えなかったのではないだろうか。人が持ち込む話を何でも賛成してしまってはダメだ」と言っていたそうだ(新井恵美子:原三渓物語、p159、神奈川新聞社、2003)。
最近、創業者一族に直言する人がいない会社の悲劇は、横浜を発祥とした「不二家」でもあった。
そう言えば、どこの不二家の店先にも、ペコペコしているやつがいた。
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