のむけはえぐすり 第47弾 その26 国立第百銀行2007年03月11日 01時35分18秒


のむけはえぐすり 第47弾
その26  国立第百銀行

 写真のように、関内大通と本町通の交差点にあるD’グランフォート横浜の1,2階部分の外壁には、イオニア式の渦巻き状の柱頭を持つ、ギリシャ風の建物が残されている。

 それが、昭和9年に建てられた旧川崎第百銀行横浜支店の一部である。

 川崎銀行と合併する前の国立第百銀行は、明治11年(1878)に鳥取藩池田侯爵家を中心として、原六郎さん、二代目川崎八右衛門さんらが発起人となって設立された。
 原六郎さんは初代の頭取であった。本店は東京日本橋で、横浜支店は写真の場所にあった。

 なぜ鳥取藩なのかというと、話はいささか因縁話めいてくる。

 原六郎さんは、弘化元年(1844)、但馬国、今の兵庫県朝来市に生まれた。家は大地主で、進藤俊三郎という名前であった。
 近くに池田草庵先生の青渓書院という儒学校があった。そこで知り合った8才年上の北垣国道さんと共に、尊王攘夷の志を抱き、師の反対を押し切って但馬農兵を組織した。
 
 その但馬に、文久3年(1863)、進藤さんが19才の時、薩摩と会津の公武合体派に敗れて亡命した尊皇攘夷派の公家(七卿落ち)の一人である澤宣嘉さんが、長州騎兵隊二代目総督の河上弥市さんらとやって来た。彼らは但馬各地の農民達と呼応して、生野代官所を占拠し、倒幕の旗を揚げた。
 
 「生野義挙」と呼ばれ、幕末に各地に勃発した討幕運動の一つである。
 しかし、時期は尚早、応援は来ない、内部はバラバラ。たちまち鎮圧され、多くは河上さんのように自刃するか、または捕らえられて処刑された。

 関係者への追及は厳しく、公家の澤宣嘉さんは長州に逃れた。大政奉還の前日に罪を許され、返り咲いた新政府では外務卿にまでのぼりつめた。

 北垣さんは因幡に逃れ、名前を変えて鳥取藩に仕官した。その後、戊辰戦争で頭角を現した北垣さんは、新政府内で出世し、京都府知事時代には京都疎水を完成させ、北海道庁長官、貴族院議員、枢密院顧問を歴任した。
 
 進藤さんは武器調達を担当していて、包囲を逃れ、京都の鳥取藩邸の松田正人さんに匿われた。その時から、原六郎を名乗るようになった。
 2年後に長州に行き、初代騎兵隊総督の高杉晋作さんと会い、守備隊長として長州征伐の幕府軍と戦った。その後、明倫館で大村益次郎さんに学び、戊辰戦争にも従軍した。明治2年、鳥取藩士となり、官軍の軍人としての道を歩み始めた。
 
ところが、原六郎さんは、明治4年(1871)26才の時、政府の推薦でアメリカに留学することになり、エール大学で経済学を学んだ。さらに、明治7年にはイギリスに渡り、レオン・レヴィさんについて金融・銀行論を学んだ。
 33才で帰国してからは金融界に入り、渋沢栄一さん、安田善次郎さん、大倉喜八郎さん、古川市兵衛さんと共に、「経済界の五人男」と並び称されるようになった。

 私が想像するのには、国立第百銀行の設立に旧鳥取藩主の池田さんが名を連ねたのは、原六郎さんのかつての主家への恩返しだったのではないだろうか。

原六郎さんはその後、請われて正金銀行の頭取になり、同銀行の建て直しに成功した。さらに帝国ホテル、山陽・山陰鉄道、富士製紙、東武鉄道を創立し、金融・経済界で活躍した。
生野義挙で自刃した13名のために、山口に招魂社を建立し、92才で他界した。

一方、川崎財閥の中核銀行であった第百銀行は、昭和2年に川崎銀行と合併して、川崎第百銀行になった。
昭和18年、それまで小さな合併を繰り返して店舗数が増え、象のような第百銀行は、蟻のようにチッポケな三菱銀行に呑み込まれ、川崎財閥の手を離れた。

優勝?まっかせなさい!!!2007年03月11日 09時02分14秒


優勝は私に任せなさい!!!!

右は密かな闘志を燃やしていたTパパです。

いつもごくろうさまです2007年03月11日 09時05分08秒


いつもいつも出走前の忙しい時にご苦労様です。

関内苑ときたらやっぱりカルビですよ2007年03月11日 09時06分53秒


どうです、この美味しそうなこと。

関内苑ときたらカルビですよ。

(あんまり美味しそうなので一口食べてから写真を撮らなきゃいけないことに気づいた)

今回はじっくり焼肉食べて・・・満足!2007年03月11日 09時10分20秒


いつもは焼肉を食べる隙も無く司会業になってしまうのですが今回はじっくり食べてからの余裕の司会・・・満足、満足!!!