のむけはえぐすり 第51弾 原善三郎の話 その29 大蔵官僚2007年03月31日 07時23分01秒


のむけはえぐすり  第51弾
原善三郎の話  その29 大蔵官僚

 善三郎の頃から、銀行がその幕を閉じる時には、お上のご意向が働くようだ。
近年、バブルがはじけた後にも、いくつかの銀行が破綻し、それ以上の数の銀行の名前が消滅した。

 銀行の破綻が噂され始めた1998年3月、銀行に対する佐々波委員会の審査がたった数日間行われただけで、21行に対して1兆7700億円の公的資金が投入された。
 だが、投入後も北海道拓殖銀行(拓銀)は山一証券の破綻と共に消滅し、さらに日本長期信用銀行(長銀)、日本債券銀行(日債銀)が危機に瀕していた。

 1998年6月に、財政と金融に関する大蔵省の権限を分けるために、総理府に金融監督庁が発足した。7月20日には、小渕内閣が誕生した。

当時は政界再編の熱に浮かされ、政権への思惑が絡み、政治が動きにくい状況にあった。そんな中、小渕首相は西村吉正銀行局長と共に、各銀行の頭取から事情を聞いた。どの頭取もただ平身低頭するばかりで、その頭の上を言葉が通り過ぎる空しさを感じた。

 そこで小渕首相は、主計局次長の竹島一彦さんと武藤敏郎さんを呼んだ。二人は小渕首相に口説かれて、首相の秘書官となった。浮き足だった政界ににらみを利かし、金融政策を強力に押し進めるための布石だった。
  
 その頃、長銀は最後の望みを、住友信託銀行に託していた。住友信託銀行は正常債権のみの引継を条件にしたが、経団連の今井敬会長が納得しない。そこで、小渕首相が住友信託銀行の取締役に電話で直談判するが、空振りに終わった。
結局、長銀には国費7兆9000億が投じられ、特別公的管理が適応された。さらに、投資ファンド会社のリップルウッド・ホールディングスに10億円で売却され、2000年に新生銀行となった。
後に、住友信託銀行からUFJ信託銀行との合併話が持ち上がった時、その申請は却下された。そっちの虫の良さに、こっちの腹の虫が治まらなかったからだろう。
 
日債銀はアメリカのバンカーズトラストから提携が模索されたが、日債銀がもたつく間に、バンカーズトラストはドイツ銀行の傘下となってしまった。日債銀は政府の通告を受諾する形で、公的管理下に置かれ、ソフトバンク連合に譲渡され、2001年にあおぞら銀行となった。

当時、ヒラの主計局事務官であった岡本薫明さんが、金融監督庁に出向した。彼には、粉飾された不良債権を見破る不思議な力があった。
 明らかになった不良債権は約30兆円、問題債権は87兆円という規模で、どの銀行も破綻が数回繰り返せるほどの不良債権を抱えていた。

 その結果、1999年3月、東京三菱銀行を除く主要銀行に、7兆5000億円の公的資金が金融再生委員会から投入された。富士(一兆)、第一勧業(9000億)、さくら(8000億)、三和(7000億)、東海(6000億)。住友だって5010億と、負けてはいない。
すでに国有化された長銀と日債銀の巨額な公的資金は、これには含まれていない。
写真は本町3丁目交差点で、写真左の銀行協会の隣、合わせて1兆3000億の三菱東京UFJ銀行と、写真右の筋向かい、合わせて1兆9000億のみずほ銀行である。

 投入の際の条件として、人件費削減などを含めた経営健全化計画の実行が求められたので、その後の合併吸収が促された。

 竹島さんはその後、外務省主席審議官に処遇され、今は公共取引委員会委員長として剛腕を振るっている。武藤さんは2000年に大蔵省事務次官になり、今は日銀の副総裁である。

主計局の二人が呼ばれた時に主税局局長であった小川是さんは、1996年に異例の主税局から大蔵事務次官となった。歴代の横浜銀行頭取は、大蔵事務次官がなっている。小川さんは今の横浜銀行の頭取で、横浜の銀行協会の会長でもある。次の全国の会長も噂される。

 銀行が消える裏には、大蔵官僚達のご意向がある。退官後の方が、もっと怖いのかも。

 参考文献
1)加野忠:金融再編、文春新書、文藝春秋、1999
2)向壽一:メガバンク誕生、NHKブックス、日本放送出版協会、2000

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