画像が拡大出来るようになりました ― 2007年07月04日 01時39分35秒
のむけはえぐすり 第56弾 原善三郎の話 その35 香港上海銀行 香港本店 ― 2007年07月04日 23時09分09秒

のむけはえぐすり 第56弾
原善三郎の話 その35 香港上海銀行 香港本店
第二次世界大戦で夫を亡くした悲しみを忘れるために、香港の病院でひたすら忙しく 働く女医のハン・スーインが、妻子ある新聞記者マークと恋に落ちる。二人は、ビク トリア・ピークからの百万ドルの夜景を見ながら、デートを重ねる。
その夜景の中にひときわ輝くセントラル街の中心に、1936年に竣工したHSBC(香港上 海銀行)本店が見える。
朝鮮戦争に記者として従軍したエリオットの悲報を聞いて、ジェニファー・ジョーン ズの演じるハン・スーインが、思い出の場所にたたずむ。バックには、”Love is a many-splendored thing”の曲が流れる。映画「慕情」のラストシーンである。
その頃から、HSBCは既存の銀行の買収(M&A)や提携へと走り始めた。
ブリティッシュ・バンク・オブ・ミドルイースト(BBME)は、元イラン帝国銀行であ る。この銀行は1889年イランのテヘランで創業され、ロイター通信社のロイターさん によって国営銀行として許可されたが、1951年にテヘランからサウジアラビアに移っ た。1959年の合併で、この銀行は中東におけるHSBCの一大拠点となった。
同じように、1892年からの古い歴史を持つマーカンタイル銀行に対する買収は、イン ドやマレー半島での基盤の強化に役立った。
1997年7月に香港を中国に返還することが、1984年に決まった。返還後の50年間は現 在の体制を維持することが約束されたとはいえ、HSBCの将来に暗雲が生じた。
そこでHSBCは買収路線(M&A)をさらに活発化していった。ただ、どの合併にも、 事業よりは利益重視、個人を囲い込んだ資産運用業務、地域的な均衡によるリスクの 分散という明確な目的がある。その銀行が新しく築いたサービス分野をそっくりいた だこうという、分かりやすい意図がある。
例えば、1980年のマリン・ミッドランド銀行に対する買収は、この会社が1850年か らニューヨーク州で営業を続け、クレジットカード部門では最大級となっていたこと から、アメリカの中西部の穀倉地帯をターゲットにして、クレジットカード部門への 進出の意図がみてとれる。現在のHSBC銀行USAである。
英国第4位のミッドランド銀行に対する買収(1992年)や、ニューヨークでは3番目 の預金受け入れ銀行であったリパブリック・ニューヨークに対する買収(1999年) は、それぞれの地域のプライベートバンキングへの進出が目的であり、HSBCを一挙に 世界最大級の金融グループへと押し上げることになった。
1878年にフランク・マッケイさんによって創立されたハウスホールド・インターナ ショナルは、アメリカの消費者ローンや月賦販売の最大手であった。この銀行に対す る買収(2003年)は、個人向け金融の大きなシェアを手に入れることになった。
社内的には、それまでの香港政庁の特別な条例によって保護されていたHSBCは、不公 平という批判をかわすため、1989年に自発的に法人登記を行った。社名のThe Hongkong and Shanghai Banking CorporationにLimitedがついた裏には、そんなこと があった。
1991年には、実は英国監督当局の要請でもあったのだが、本部機構を香港に残したま ま、ロンドンに持株会社のHSBCホールディングスを設立した。この会社の上級役員は 各地域別銀行の持ち株会社を兼任し、グループ全体の経営をロンドンで統括できるよ うにした。
このように香港一辺倒からの脱出を計る一方で、返還後には、逆に人民元の業務の許 可を受け、中国統括本部を香港から上海に移している。2001年には、中国銀行の株式 を8%取得し、さらに中国第一の生命保険会社・平安保険の株を取得した。どちらに 転んでも生き残れるようにと、なかなかしたたかなところも見せている。
日本の銀行は大丈夫かというと、1999年に来日したジョンボンド会長は日経新聞のイ ンタビューに、「我々は年2割の利回りを求める投資家を相手にしているが、邦銀が 相手にしているのは年5%の利回りで満足する投資家である」と答えている。日本の 銀行は話にならないということだから、安心して良さそうだ。フン。
写真は、1986年に立て替えられた今のHSBC本店ビルである(写真は香港旅行情報サ イト・香港ナビより)。100万ドルのうち、30万ドル分くらいの価値は充分にある。
F-cup;米原集合写真 ― 2007年07月05日 04時01分47秒
香港ナビ様 ― 2007年07月06日 01時03分20秒

香港ナビ様
前略
この度は「のむけはえぐすり」の「香港上海銀行 香港本店」に、貴社のWebの写真掲載の許諾のお願いに、早速ご返事いただきありがとうございました。 ご指摘のように、文章の中に貴社のサイトより引用したことを記載いたしました。ただ、写真のハイパーリンクが構成できていないようです。 実は、私たちもまだブログの作成に慣れておりません。段落がスッ飛んだり、ドン詰まりになったりしているのもそのためです。 ブログの管理者とは週に一回飲みながら、当ブログの編集会議を開いておりますが、週に一回が悪いのか、飲みながらが悪いのか、なかなか問題が解決できないでいることも多いのです。 写真をクリックすると貴サイトにリンクできるようなハイパーリンクになるまで、お詫びと訂正をかねて、この欄に香港ナビのサイトを紹介させていただきます。 香港ナビ:http://www.hongkongnavi.com
早々 写真は、HSBCの東京支店の正門前にあった看板です。
じょっぱり ラベル ― 2007年07月06日 01時14分34秒
津軽のお酒;じょっぱり ― 2007年07月06日 01時15分49秒
津軽のお酒「じょっぱり」です。
蔵元「北国津軽の酒蔵 六花酒造」のHP;
北国津軽の厳寒の冬に醸し出される六花酒造の酒。清爽な津軽平野で育まれた原料米と、世界遺産「白神山地」を源流とする清冽な地下伏流水を用い、杜氏の伝統の粋を極めた美味しい酒が造られています。当社の主力製品の「じょっぱり」は津軽弁で「頑固者」を意味する言葉です。昭和40年代未だ甘口酒全盛時代、杜氏がこだわりを持って造った辛口の清酒「じょっぱり」は時代に流される事なく、その後到来する辛口酒ブーム以前より現在に至るまで頑なにその味を貫いております。
ということのようです。
というのは僕はこのお酒を飲めませんでしたので残念ながらコメント無しです。
次回は是非味わいたいですね>ジョンガラブシさん
F-cup;昨年11月米原です ― 2007年07月06日 22時13分40秒
フライペンの美味しい料理;冷麺 ― 2007年07月07日 06時09分29秒
のむけはえぐすり 第57弾 原善三郎の話 その36 香港上海銀行の正体 ― 2007年07月09日 04時30分55秒
のむけはえぐすり 第57弾
原善三郎の話 その36 香港上海銀行の正体
香港上海銀行設立の発起人となったのは、イギリス最大の海運貿易会社Peninsular &Oriental Stream Navigation Company(P&O汽船)の香港支店長であった。だが、昔から黒幕は容易に顔を見せない。ちなみに、このpeninsularはインド半島のこと。
香港上海銀行の設立のリーダーシップを取ったのは、David Sasoon(サスーン)さんである。
サスーンさんは1792年にバグダットで生まれたスペイン系のユダヤ人で、サスーンさんの家はシルクロードの交易で富を築き、トルコの財務大臣にもなった家柄である。
1832年にサスーンさんは、インドのボンベイに移住してきた。その翌年には、イギリス東インド会社があまりにも貿易を独占しすぎるというので、イギリス議会によって解散させられている。その資産をだれがどのように継承したのか、今はその資料を持っていない。
それから、サスーンさんは中国にやってきた。広東を中心に紅茶や綿の貿易をしていた。大きな声では言えないが、当時はオオッピラにアヘンも扱っていた。アヘンはサスーンさんにとって、大変な利益をもたらした。
1840年にとんでもないものを売りつけると清朝政府が怒って、特命大臣の林則徐にアヘンを押収させ、焼き払わせた。待ってましたとばかりに、サスーンさんたちは軍隊を動かし、戦争して勝った。清朝政府に香港を植民地として提供させ、上海などを開港させ、賠償金でまたまた莫大に儲けた。
香港が割譲されると、まず息子に香港支店をつくらせ、やがて本社も移した。サスーンさんがスポンサーとなって1864年に設立された香港上海銀行は、清朝政府の公債発行を引き受け、鉄道事業に乗り出し、金融と本格的な事業へと進出していった。五男のアーサー・サスーンさんは、香港上海銀行の最大の株主になった。
ところが、同じことをマカオでやったイギリス人の二人組がいた。William Jardine(ジャーディン)さんとJames Matheson(マセソン)さんで、二人の名前を組み合わせたジャーディン・マセソン商会は香港上海銀行の強力なライバルとなった。
しのぎを削った仲ではあったが、誰か仲介をする人がいたのだろう、ジャーディン・マセソン商会の会長Keswick(ケスウィック)さんは香港上海銀行と和解し、ケスウィックさんは香港上海銀行の取締役に迎えられた。
個人の筆頭株主は、Swire(スワイヤー)さんである。スワイヤー商会はリバプールで始まり、1870年に香港支店を開設し、海運業、不動産業で成功した。1948年にはキャセイ・パシフィック航空の筆頭株主となり、ブルックボンド紅茶や石油・天然ガス資源開発 僉 船舶事業を保有している。スワイヤーさんは今や香港上海銀行の特別顧問である。
1965年、香港の地場銀行である恒生銀行が金融危機に陥った際、香港上海銀行は恒生銀行の株式の過半数を確保した。恒生銀行と書くと分からないが、「ハンセン」と中国読みにすると、香港のハンセン株価指数の語源が分かる。恒生銀行の重役だった包玉剛さんと、香港の株の五分の一を保有していると言われる李嘉誠さんは、香港の二大華僑財閥であり、どちらも香港上海銀行の最高幹部になっている。
ある時期、香港上海銀行の重役室をのぞくと、会長室にはケスウィックさんがいて、副会長室には李嘉誠、特別顧問室にはスワイヤーさんがいる。重役室には包玉剛さんの名前があるという状況だった。
サスーンさんとケスウィックさんを和解に持ち込めるほどの、とてつもない黒幕がいるようだ。そこで、と「赤い楯」の著者、広瀬隆さんは言う。
先ほどのアーサー・サスーンさんの義理の弟は、イギリスの金融NathanRothschild(ネイサン・ロスチャイルド)さんのお孫さんですヨと。また3代目のEdward Sasoonさんの奥さんはAline Rothschild(アリーン)さんですヨと。 院 スウィックさんだって、スワイヤーさんだって、閨閥の閨閥つながりで、行きつくところはネイサン・ロスチャイルドさんですヨと。
写真は、山下2番、産業貿易センターの玄関前にあるHSBCのmemorial plateである。震災後のいつ頃からか、ジャーディン・マセソン商会の隣のこの場所に、香港上海銀行の横浜支店があったことが記されている。赤い六角形のHSBCのロゴマークが見える。
これからしばらく、ユダヤの金融の話が続く。
参考文献1)村上隆:赤い楯 ロスチャイルドの謎 上・下、集英社、1991
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