のむけはえぐすり 第57弾 原善三郎の話 その36 香港上海銀行の正体2007年07月09日 04時30分55秒

のむけはえぐすり 第57弾

原善三郎の話  その36 香港上海銀行の正体

香港上海銀行設立の発起人となったのは、イギリス最大の海運貿易会社Peninsular &Oriental Stream Navigation Company(P&O汽船)の香港支店長であった。だが、昔から黒幕は容易に顔を見せない。ちなみに、このpeninsularはインド半島のこと。

 

香港上海銀行の設立のリーダーシップを取ったのは、David Sasoon(サスーン)さんである。

サスーンさんは1792年にバグダットで生まれたスペイン系のユダヤ人で、サスーンさんの家はシルクロードの交易で富を築き、トルコの財務大臣にもなった家柄である。

1832年にサスーンさんは、インドのボンベイに移住してきた。その翌年には、イギリス東インド会社があまりにも貿易を独占しすぎるというので、イギリス議会によって解散させられている。その資産をだれがどのように継承したのか、今はその資料を持っていない。

 

それから、サスーンさんは中国にやってきた。広東を中心に紅茶や綿の貿易をしていた。大きな声では言えないが、当時はオオッピラにアヘンも扱っていた。アヘンはサスーンさんにとって、大変な利益をもたらした。

 

1840年にとんでもないものを売りつけると清朝政府が怒って、特命大臣の林則徐にアヘンを押収させ、焼き払わせた。待ってましたとばかりに、サスーンさんたちは軍隊を動かし、戦争して勝った。清朝政府に香港を植民地として提供させ、上海などを開港させ、賠償金でまたまた莫大に儲けた。

香港が割譲されると、まず息子に香港支店をつくらせ、やがて本社も移した。サスーンさんがスポンサーとなって1864年に設立された香港上海銀行は、清朝政府の公債発行を引き受け、鉄道事業に乗り出し、金融と本格的な事業へと進出していった。五男のアーサー・サスーンさんは、香港上海銀行の最大の株主になった。

ところが、同じことをマカオでやったイギリス人の二人組がいた。William Jardine(ジャーディン)さんとJames Matheson(マセソン)さんで、二人の名前を組み合わせたジャーディン・マセソン商会は香港上海銀行の強力なライバルとなった。

しのぎを削った仲ではあったが、誰か仲介をする人がいたのだろう、ジャーディン・マセソン商会の会長Keswick(ケスウィック)さんは香港上海銀行と和解し、ケスウィックさんは香港上海銀行の取締役に迎えられた。

個人の筆頭株主は、Swire(スワイヤー)さんである。スワイヤー商会はリバプールで始まり、1870年に香港支店を開設し、海運業、不動産業で成功した。1948年にはキャセイ・パシフィック航空の筆頭株主となり、ブルックボンド紅茶や石油・天然ガス資源開発 僉 船舶事業を保有している。スワイヤーさんは今や香港上海銀行の特別顧問である。

1965年、香港の地場銀行である恒生銀行が金融危機に陥った際、香港上海銀行は恒生銀行の株式の過半数を確保した。恒生銀行と書くと分からないが、「ハンセン」と中国読みにすると、香港のハンセン株価指数の語源が分かる。恒生銀行の重役だった包玉剛さんと、香港の株の五分の一を保有していると言われる李嘉誠さんは、香港の二大華僑財閥であり、どちらも香港上海銀行の最高幹部になっている。 

ある時期、香港上海銀行の重役室をのぞくと、会長室にはケスウィックさんがいて、副会長室には李嘉誠、特別顧問室にはスワイヤーさんがいる。重役室には包玉剛さんの名前があるという状況だった。

サスーンさんとケスウィックさんを和解に持ち込めるほどの、とてつもない黒幕がいるようだ。そこで、と「赤い楯」の著者、広瀬隆さんは言う。

先ほどのアーサー・サスーンさんの義理の弟は、イギリスの金融NathanRothschild(ネイサン・ロスチャイルド)さんのお孫さんですヨと。また3代目のEdward Sasoonさんの奥さんはAline Rothschild(アリーン)さんですヨと。 院 スウィックさんだって、スワイヤーさんだって、閨閥の閨閥つながりで、行きつくところはネイサン・ロスチャイルドさんですヨと。 

写真は、山下2番、産業貿易センターの玄関前にあるHSBCのmemorial plateである。震災後のいつ頃からか、ジャーディン・マセソン商会の隣のこの場所に、香港上海銀行の横浜支店があったことが記されている。赤い六角形のHSBCのロゴマークが見える。

これからしばらく、ユダヤの金融の話が続く。 

参考文献1)村上隆:赤い楯 ロスチャイルドの謎 上・下、集英社、1991