のむけはえぐすり 第66弾 原善三郎の話 その45 Aberdeen取材旅行 Edinburgh大学2007年09月14日 23時04分03秒

エジンバラ大学

のむけはえぐすり 第66弾 原善三郎の話  その45 Aberdeen取材旅行 Edinburgh大学

写真は私が訪ねたエジンバラ大学で、エジンバラ城に近いロイヤル・マイルから、サウス・ストリートの坂を少し下った所にある。石造りの校舎に囲まれた中庭では、数人の若者がロイヤル・マイルで行われているサマーフェスティバルの出し物の練習をしていた。観光客の喧噪をよそに、その一角は静かな劇場にいるようだった。

16世紀、イギリスにはオックスフォード大学とケンブリッジ大学のふたつしかなかったのに、人口がイギリスよりも格段に少ないスコットランドには、セント・アンドリュース大学を初め、グラスゴー大学、アバディーン大学のKings CollegeとMarischal College、エジンバラ大学と、大学が5つもあった。

大学が多かったのは、オックスブリッジが「やれ国教徒だ、やれ良いところのボンだ」とこだわっていたのに対して、スコットランドの大学が「才能のある若者」(Lads o'pairt)であればだれでも受け入れたからだ。大学での授業には討論式が採り入れられ、教授の給料が受講生の数で決められていたので、スコットランドの大学には常に活力があった。

だが、せっかく大学は出たけれど、それを生かす飯の種がスコットランドにはなかった。どうしても優秀な若者は、海外に出ざるを得ない。そうやって、スコットランドから日本にやってきた若者が、明治の頃にはたくさんいた。彼らは日本政府や県庁、市役所、あるいは私企業に雇われて、いわゆる「お雇い外国人」になった。

政府が採用したお雇い外国人は、明治32年に外国人雇い入れが廃止されるまで、延べ6193人、実総数で3000人前後いたといわれている。とりわけ明治5年から西南戦争があった明治10年までの間が多く、年間500人を越えることもあった。彼らの多くは学術教師や技術系の技師として採用された。

私が知りたいのは、スコットランドから来たお雇い外国人がどのくらいいたかということだ。時期にもよるが、明治の初めの10年間は、工部省の採用が群を抜いて多かった。そのうちの81%がイギリス人で、主に鉄道、通信面で採用されていた。大蔵省関係には、造幣寮のキンドルさん達もいた。

イギリス人と言われる中には、相当な数のスコットランド人がいたようだ。知られているだけでも、工部大学校の教頭ダイエルさんや日本に初めて電灯を灯したエルトンさんなど、後の東大工学部創立時の6人の教授のうち3人はグラスゴー大学から来ている。その他上下水道のマッキントッシュさん、灯台建設のブラントンさん、軽井沢開発のショーさんがいる。医学系では、東京医学校の初代校長(現東大医学部)のウィリアム・ウィリスさんがアイルランドで生まれのエジンバラ大学出身である。とにかく、「マック・・・」という名前の外国人が、毎年必ず数人はいた勘定だ。   給料はべらぼうに良かったらしい。イギリスの王立科学専門学校出身のキンドルさんの太政大臣よりも多い給料は別格としても、工部大学校教頭のダイエルさんやアバディーン出身の大蔵省のシャンドさんなどは、大久保利通さん並にもらっていた。

明治18年頃には、お雇い外国人の数が激減している。その頃から、政治や行政面でのドイツの影響が強くなり、文部省管轄の東京大学医学部ではドイツ人の教授が増え、少ない中ではドイツ人の割合が相対的に多くなった。

日本人留学生の受け入れやお雇い外国人の活躍で、日本の近代化にスコットランド人が果たした役割は大きい。多分何人かの「はずれ外国人」はいただろうが、その残された成果を見る限り、彼らの多くは自分の専門分野にプライドを持って、自分の役割を誠実に果たしたと言ってよいだろう。   アバディーン大学の卒業生といえば、ジャーディン・マセソン商会のマセソンさんもケズウィックさんもそうだった。ジャーディンさんの方は東インド会社の商船の医師であったことが分かっているのだが、スコットランドのどこの大学出身なのかが分からない。

実はスコットランドでは、医師も国内では働き口がない悲しい存在だった。医学そのものは優秀な教授陣がそろい、レベルも世界水準だったのだが、卒業生はイングランドに行っても、医学界で特権的な地位を占めているオックスブリッジ出身の医師に排除され、不遇を囲っていたからだ。

そのために、海外に行ったり、船医になったり、小説家になったりするスコットランドの医師が多かった。小説家になった代表は、「シャーロック・ホームズ」のコナン・ドイルさんだが、「帽子屋の城」のクローニンさんもグラスゴー大学卒の医師だ。先ほどの東大医学部のウイリスさんなどは海外組の代表だが、リビングストンさんのように宣教をかねてアフリカまで行ったら、探検家と呼ばれるようになってしまった医師もいた。

転職組のジャーディンさんは、麻酔科の-医師だったのかも知れない。人にアヘンを吸わせるのが、とても上手かった。

参考文献 1)高橋哲雄:スコットランド 歴史を歩く、岩波新書、2004 2)梅渓昇:お雇い外国人 ①概説、鹿島出版会、1968 3)梅渓昇:お雇い外国人 明治日本の脇役たち、講談社学術文庫、2007 4)Olive Checkland:加藤詔士編訳:日本の近代化とスコットランド、玉川大学出版部、2004