のむけはえぐすり 第67弾 原善三郎の話 その46 Aberdeen取材旅行 Aberdeen大学 Marischal College2007年09月21日 22時24分15秒

Aberdeen大学 Marischal College

のむけはえぐすり 第67弾 原善三郎の話  その46 Aberdeen取材旅行 Aberdeen大学 Marischal College

アバディーンのユニオン・ストリートが、キングズ・ストリートへと名前が変わる東の端に、The Tolboothがある。写真のAberdeen大学のMarishal Collegeは、その隣にある。

中世には牢獄だったThe Tolboothは、現在は博物館になっている。   The Tolboothの二階に昇ると、展示物を寄付してくれたRobert Wilsonさんの略歴が紹介されている。

Wilsonさんは1787年にBaniffで生まれ、1805年にMarischal Collegeの医学部を卒業した医師だった。彼もまたJirdineさんのように東インド会社の船医となって、インドに渡った。そこでしこたま儲けた金で、崩壊寸前のオスマントルコを6年間もくまなく歩き、各地の珍しいものを集めた。 

Aberdeenに戻ったWilsonさんは、Moray Societyの重鎮となり、1871年に亡くなった。彼が収集した宝物はMarischal Collegeに寄付され、The Tolboothに展示されている。

ここで驚くのは、東インド会社に勤めれば、例え船医であっても短期間に一財産を築くことができ、国に帰れば名士として迎えられたということだ。   東インド会社とは何だったのだろう、なぜ医師のくせにそんなに儲けることが出来たのだろう。そして、東インド会社の末裔とは誰なのか、興味が湧く。

1599年、ロンドンの商人たちが200人ほど集まり、4隻の船団を東インド諸島(香料諸島)へ送ることにした。イギリス女王Elizabeth Ⅰはその会社に、東洋貿易を15年間独占する「特許状」を与えた。

650人の乗組員のうち180人ほどは帰らぬ人になったが、航海は大成功で、持ち帰った香料などを売り、大きな配当を得た。これに味を占めて何度も船団を出し、平均138%もの高配当を上げた。出資者達の人気は否応なく高まり、会社は株式会社となった。

だが、香料諸島におけるオランダの勢力は強く、東インド会社はインドに向かった。そこにいたポルトガルの勢力を追い出すと、ムガール皇帝に取り入り、アグラやカルカッタに商館を築いた。    特許状はその後も更新され、特許破りの商人やオランダと戦うために、会社はろくでもない連中を集めて、軍隊を持つようになった。17世紀後半からは、ことあるごとに、会社軍の司令官がイギリスの国軍の司令官も兼ねた。

1765年に会社軍はプラッシーで、フランスが後押しするベンガル太守との戦いに勝った。ムガール皇帝から「ディワニー権」と呼ばれる代理の統治権を獲得すると、東インド会社が税を徴収するようになった。公共事業に回すわけでもないので、それまでせいぜい年間の利益が数十万ポンドにすぎなかった会社が、一挙に165万ポンドの会社に成長した。そこから、東インド会社は単なる貿易商社から、インドの植民地の支配者に一変した。

賄賂や略奪が横行した。プラッシーの戦いで活躍したクライブさんは自分のことは棚に上げて、「従業員全員に堕落と放縦の習慣が染みつき、正義感はまったく欠如している。・・・・強欲になり、贅沢になった」と述懐している(Brian Gardner、「イギリス東インド会社」122p)。

当時、ロンドンには約2000人の株主がいた。配当は8%から10%あり、誰もが株主になりたがった。毎年、株主総会が開かれ、そこで選ばれた24人の取締役が会社を運営していた。   ロンドンの職員は1833年には300人ほどだったが、インドで一旗上げようとするものはまず現地で採用され、書記、士官候補生、医師見習いになった。十数万に肥大化した会社軍を指揮するために士官候補生の採用が多かったが、医師見習いも毎年ひとりかふたり採用された。一旦採用され、熱帯のインドで生き残ることができれば、誰もがNabob(ネイボッブ)と呼ばれる「インド成金族」になれた。後は、少しの間、自分の中の正義感に目を閉じていれば良かった。

産業革命後のイギリスでは都市へ人口が集中し、200人ほどに選挙人が減っても選挙区がそのまま残り、地主や貴族の意のままになる「腐敗選挙区」が111もあった。そこから、金の力で下院議員になったネイボッブも多かった。      輸入品も初めの頃は胡椒が多かったが、やがて木綿に代わり、1720年頃から中国との貿易で茶の輸入が急速に増えていった。代わりに金や銀が輸出され、会社としては儲かるが、国全体の経済としては大問題だった。

だが、当時イギリスが売るものといえば、毛織物しかない。これがあれば冬も温かく過ごせるのに、インド人も中国人も買おうとしない。

そこで、東インド会社はインドにあったアヘンを、中国で売ることにした。アヘンは中国ではよく売れ、東インド会社の収支は大幅な輸出超過に転じた。その頃から既にアヘンの害は知られてはいたが、一度インドで閉じられた目は中国でも開かれることはなかった。イギリスにおける批判は、下院議員になったネイボッブが抑えてくれた。

そのどさくさで、スコットランドの医師も、インドではお金持ちになった。その後、WilsonさんはAberdeenに戻って名士になり、Jirdineさんは香港に行ってさらに儲けた。

参考文献

1)浅田實:東インド会社 巨大商業資本の盛衰、講談社現代新書、2007

2)ブライアン・ガードナー、浜本正夫訳:イギリス東インド会社、リブロポート、1989