F-cup;涙の優勝カップ2007年09月27日 23時16分08秒

F-cup;涙の優勝カップ

今回はピンクがラッキーカラーだったのでしょうか

優勝カップを手にして感激の涙涙。。。

491では全員賞金を供出して騒ぎすぎたそうです

のむけはえぐすり 第68弾 原善三郎の話 その47 Aberdeen取材旅行 Edinburgh城2007年09月27日 23時22分22秒

Aberdeen取材旅行  Edinburgh城

のむけはえぐすり 第68弾 原善三郎の話  その47 Aberdeen取材旅行  Edinburgh城

写真はNew Townから撮影したエジンバラ城である。左側が城門で、緩やかな坂がロイヤル・マイルになっている。それ以外の三方は、城塞にたどり着くことすら不可能な断崖に囲まれている。   城内を見て、驚いたことがいくつかある。   城内にスコットランド軍の歴史を紹介する博物館が三つもあること、今でも連隊本部として使われていること、スコットランド戦没者記念堂にRoll of Honourとよばれる巻物があって、そこには全ての戦死者の名前が記載されていることなどである。

三つの博物館のうちのひとつ、スコットランド国立戦争博物館には、17世紀にスコットランド軍が創立された時からの戦争の歴史が展示されている。年表で見ると、よくもこれほど戦争をし続けたものだと、絶え間のない戦争の連続に驚かされる。   どんな激戦の中でも、バグパイプを鳴らし、スコットランド語の”to byde and fecht”(留まり戦え)を略したBydand(バイダンド)を叫んで突撃する、Aberdeen(92連隊)とStirling(75連隊)のハイランダー連隊が、常にイギリス軍の前線にいた姿が描かれている。

ただ、1854年からのクリミア戦争にはほとんど参加していない。それは東インド会社によるインド征服戦争にかり出され、疫病で半数の戦力をうしなっていたからだ。

1848年にダルフージ卿がインド総督に就任した頃、インドには2万6000人のイギリス国軍のヨーロッパ兵と、会社が雇った25万人のセポイからなる会社軍がいた。   ダルフージ卿は会社の支配地域を着実に広げていった。最後にモスリムが支配する最大の王国であったアウドを併合し、内陸のデリーから港のあるカルカッタのまでのガンジス川の流域は全て東インド会社の支配下に置かれることになった。その地域を支配していた王様一家は、裕福な年金生活者に追いやられ、所持していた多くの宝石類は東インド会社の代表者によって持ち去られた。

セポイはアウドやベンガルのヒンズー教徒やムスリムの出身者が多かった。カーストは高く、民族意識も高かったので、常日頃アウドに対する高圧的な態度にも不満がわだかまっていた。その上、今度はビルマ遠征の噂も聞こえてきた。

そんな時に、東インド会社はセポイの銃を、新式のエンフィールド銃に換えようとした。新しい薬包には、銃に滑らかに装填できるように、牛や豚の脂肪が塗られていた。その薬包の端を口で咬みきることは、ヒンズーもムスリムも、最も嫌うことだった。

東インド会社の重要な駐屯地であるメーラト基地では、銃の受け取りを拒否したセポイに侮辱的な刑罰が加えられた。その翌日の1857年5月12日、セポイが兵舎や宿舎に火をつけ、ヨーロッパ人の仕官や兵を見つけ次第殺している、との一報が会社に届いた。  

叛乱はすぐ飛び火し、イギリス人は各地で圧倒的な大群に包囲された。イギリス軍最強のスコットランド・ハイランダー連隊が救出に派遣されたが、カンブールにバグパイプを先頭に銃剣突撃を敢行した時には、セポイによる殺戮が終わった後だった。

コレラや赤痢、絶え間ない反乱軍の攻撃に悩まされながらも、やがて体勢を立て直したイギリス軍によって、デリーやアウドの主要都市のラックナウが解放された。デリーでは、叛乱軍に祭り上げられたムガール帝国の皇帝バハードゥル・シャーⅡが幽閉され、王子達は自殺させられた。一般民衆を巻き込んだ大量殺戮が繰り返され、どちらもが残虐で非道だった戦争は終わった。相互に不信感と不快感だけが残った。

叛乱の間に、東インド会社の借金は倍になり、会社は活動不能になった。1858年8月、イギリス下院にインド法案が提出され、東インド会社が有する全ての権限を新しく設立される委員会に移管されることが決まった。

9月1日、ロンドンのリーデンホール街の本社では最後の役員会が開かれ、会社の閉鎖が宣言された。

1873年にザ・タイムズ紙は、東インド会社を総括する論文を載せ、「会社は、議会の手によって執り行われた厳粛な葬式によって地上から消え去った今、・・・」と書いている(ブライアン・ガードナー、イギリス東インド会社、409p)。

ある時からすっかり植民地の統治者となってしまった東インド会社の命運は、叛乱の責任を会社のやり方にあるとして、イギリス議会によって閉じられた。

だが、私がもっと知りたいのは、誰が東インド会社の商権を継承したかと言うことだ。

参考文献

1)浅田實:東インド会社 巨大商業資本の盛衰、講談社現代新書、2007

2)ブライアン・ガードナー、浜本正夫訳:イギリス東インド会社、リブロポート、1989

3)ヒストリック・スコットランド友の会:エディンバラ城、公式ガイドブック