明けましておめでとうございます2008年01月01日 00時05分09秒

みなさん  明けましておめでとうございます 昨年はフライペンをご愛顧いただきありがとうございました 本年もよろしくお願いします 昨年は希貞も結婚しましたので本年はいよいよ私の番です(^_^) ご支援よろしくお願いします(^^♪

のむけはえぐすり 第76弾 原善三郎の話 その54 ジャーディン・マセソン商会 東インド会社OB2008年01月01日 10時19分41秒

、のむけはえぐすり ”The Thistle and the Jade”にあった1820年代のWilliam Jardineさんの肖像

第76弾 原善三郎の話  その54 ジャーディン・マセソン商会 東インド会社OB

  Jardineさんは、1802年、18才で東インド会社の商船の船医見習いになった。その後のJardineさんについて、石井摩耶子さんは著書「近代中国とイギリス資本」の中で、「1817年に『自由商人』として独立し、マカオに移って茶貿易に従事した」と、さらっと書いている。

  その意味を、自分なりに解釈してみる。

  「1817年」という年は、1813年に中国以外の国における東インド会社の貿易独占が廃止され、次は中国市場の解放に向けて個人商社の設立が相次いだ頃だった。だから、Jardineさんは東インド会社の早期リタイヤ組のはしりだったということだろう。

  「自由商人」というのは、1796年に清朝政府によってアヘン貿易が禁止されてから、東インド会社は表だってアヘンを扱うことは出来なくなったため、代わってアヘンを扱うようになったイギリスの商人達のことだ。私商(private trader)と言ったり、自由商人(free merchant)と言ったりしているようだ。

  東インド会社にとっても、訳の分からない商人に市場を荒らされるよりは、自分の息のかかった商人に許可を与えて管理したほうが得だった。その点では、Jardineさんは15年間も東インド会社に勤めたOBだったので、自由商人の許可を取りやすかったと考えられる。

  このことは中国の商人にとっても望むところだった。   当時の中国では、外国との貿易は清朝の皇帝が特別に許可した行商(Hong Merchants)にだけ、許可されていた。時代によって、行商の数は13から26あったと言われている。人からうらやましがられる行商でも、皇帝が物入りになれば上納金を要求されるし、たまには取引相手には逃げられる。決して内情は楽ではなかった。それだけに、行商にとっても、東インド会社が許可をした身元の硬い商人は、多少マシな方だった。船医時代から私物扱いでアヘンを持ち込んで商売していたJardineさんなら、大歓迎といったところか。

  「マカオで」、というところも引っかかる。当初、貿易商人は広東に永住することを許されなかった。貿易に関係がない冬場は、マカオに住むように決められていた。そういう貿易商人は公局と呼ばれていたから、Jardineさんも始まりは公局だった言えるだろう。

  東インド会社にしても、誰彼なく勝手に広東に居住することに良い顔しなかったようだ。会社の支配人会に所属する船荷監督の優先的な権利を、守りたかったからだろう。     そんな東インド会社の主流からはずれた傍系の貿易商人が広東に住むためには、適当な国の領事館員の肩書きを利用した。例えば、からくり時計などを売り、マカオの有力な私商だったマニアック(Charles Magniac)さんは、プロシャの副領事という肩書きだった。   1820年からは、James Mathesonさんはデンマークの領事だ。その肩書きはジャーディン・マセソン商会のトップに代々受け継がれ、家の表札にもそう書かれた。中には、ハワイのカメハメハ大王の代表部になった人もいる。   その点、Jardineさんには領事の肩書きが必要なかったようだから、広東への居住も東インド会社のお墨付きがあったのかも知れない。いずれにせよ、東インド会社のOBとして、かなり有利な立場であったことは間違いないようだ。

  「茶貿易に従事した」とさらっと書かれているのは、裏稼業のアヘン貿易に従事したとも書けないからで、当時としては当たり前のことだったので、分かってヨということだろう。

  となると、石井さんの「1817年に『自由商人』として独立し、マカオに移って茶貿易に従事した」という一文を自分なりに解釈してみると、「中国におけるアヘンの市場開放に備えて、東インド会社を早期リタイヤしたJardineさんは、会社のお墨付きで、アヘン貿易に従事した」ということに考えられる。

 

写真は、”The Thistle and the Jade”にあった1820年代のWilliam Jardineさんの肖像である。Jardineさんは商談するにも時間が惜しいので、部屋にはイスをひとつしか置かなかったと言われている。そんなせっかちな人が肖像画を描くために、何日間もポーズを取ることなど考えられない。肖像画のJardineさんの左手にはメモ書きが見えるので、この絵は立って仕事をしている時の姿を描かせたのだろうと、私は想像している。  

参考文献   1)石井摩耶子:近代中国とイギリス資本 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に、東京大学出版会、1998   2)Maggie Keswick:The thistle and the jade A celebration of 150 years of Jardine, Matheson & Co., Octopus Books Limited, London, 1982

새해 복 많이 받으새요.2008年01月02日 17時42分29秒

올해도 잘 부탁 합니다.

のむけはえぐすり 第77弾 原善三郎の話 その55 ジャーディン・マセソン商会 パートナー2008年01月03日 04時11分13秒

のむけはえぐすり “The Thistle and the Jade”にあったJames Mathesonさんの肖像

のむけはえぐすり 第77弾 原善三郎の話 その55 ジャーディン・マセソン商会 パートナー

  Jardineさんはグラスゴーの南、イギリスとの国境に近いダンフリースシャーのLochmabenで生まれた。Jardine家は11世紀にノルマン人がイギリスを征服した時にやって来て、その後、国境を接したイギリスとの歴史に翻弄された由緒ある子爵の家柄だった。9才の時にお父様が亡くなってからは、兄のDavisさんがWilliam Jardineさんの面倒を見るようになり、エディンバラで医学の勉強をさせた。     その後、Jardineさんは東インド会社の船医見習いになったというが、誰でもがなれるというのではなく、こういう家柄の人が採用されていたのだろう。

  東インド会社の船医ともなれば、船荷の中に“privilege cargo space “という自分専用の船荷を扱うことが許されていた。そこに商品を積み込んで商売したり、人に貸したりして、お金を稼ぐことができた。1817年に会社をリタイアするまでには、立派に商売を覚えることができたし、後で一緒に働くことになる船の仲間とも知り合うことができた。

  イギリスとフランスが戦争をしていた時、Jardineさんは東インド会社のBrunswick号に乗っていて船ごと捕虜になってしまったことがある。この時に同じ捕虜仲間にパーシー教徒のJamsetjee Jejeebhoyさんがいた。パーシー教徒はイランから来た拝火教徒で、勤勉で商売が上手いとインドの中でも一目置かれている存在だ。二人ともprivilege cargoを取り上げられ、スッテンテンにされたが、ここでは、Jaridineさんは重要なビジネス・パートナーと出会った。

  Jardineさんが東インド会社で得た人脈を活用し、1817年にマカオで茶とアヘンを扱う貿易商となり成功した。それでも、1825年にマカオで有名なマニアック商会からパートナーに誘われた時は、Jardineさんにとっては大きなチャンスだった。将来は、マニアック商会の事業を受け継ぐという話にもなっていた。     会社のパートナーとは、会社に資金を出し、名前を連ね、経営に参画する人のことだ。パートナーが数人集まって合名会社(partnership)を作ることができる。当時、どこにでもあった会社の経営スタイルだが、何かあればパートナー全員で無限の責任を負うというものだけに、パートナーを選ぶには「誰でも金さえあれば」というわけにはいかなかった。同じ釜の飯を食う相手、とりわけ兄弟をはじめとした血縁や地縁が重視された。

  この時、Jardineさんはまず東インド会社の元事務長のHenry Wrightさんを誘った。この辺りが、Jardineさんの慎重なところだろう。後日、Mathesonさんは、この時にWrightさんがいなければどうにもならなかったと、回想している。     次に、12才年下のJames Mathesonさんを誘った。Mathesonさんはスコットランドでも北のはずれ、地図で探すのも大変な田舎のLairgの出身だ。かなり優秀だったらしく、The Royal High Schoolを出て、エディンバラ大学に進み、勤めた東インド会社の事務室でも結構、名の知れた存在だった。だが、この頃はお互いを知らなかったようだ。会社を辞めてからは“Free Merchant”の資格を得て、しばらくカルカッタでスペイン人と仕事をしていたが、上手くいかず、その頃は広東で細々と商売をしていた。     1832年にマニアック商会が閉鎖されたのを機に、二人はその事業を受け継ぎ、ジャーディン・マセソン商会を設立した。

  この頃の中国にいたヨーロッパの商人達は、周りに女性がいなかったのか、知らなかったのか、結婚しないのが普通だった。だからJardineさんには子供がいないし、Mathesonさんが結婚するのも、ロンドンに帰ってからだ。家族がいない二人にとって、二人が人生のパートナーのようなものだった。それだけに、相手の家族を自分の家族のように思い、次々と縁者たちをジャーディン・マセソン商会のパートナーとして迎えた。

  写真は、“The Thistle and the Jade”にあったJames Mathesonさんの肖像である。MathesonさんはJardineさんを尊敬し、スペイン語ができ、法律的な問題を担当していた。どちらかと言えば、Mathesonさんの方が頑固で性格は激しいのに、彼の方が諫め役になっていたと言う。

  参考文献   1)石井摩耶子:近代中国とイギリス資本 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に、東京大学出版会、1998   2)Maggie Keswick:The thistle and the jade A celebration of 150 years of Jardine, Matheson & Co., Octopus Books Limited, London, 1982

カンガルー日記;シドニー ロイヤルボタニックガーデン(王立植物園)2008年01月04日 23時59分13秒

カンガルー日記;シドニー ロイヤルボタニックガーデン(王立植物園)

ロイヤルボタニックガーデン(王立植物園)の看板