のむけはえぐすり 第85弾 原善三郎の話 その63 ジャーディン・マセソン商会 ところでアヘンは?2008年04月13日 22時10分22秒

のむけはえぐすり  ところでアヘンは?

のむけはえぐすり 第85弾

原善三郎の話 その63 ジャーディン・マセソン商会 ところでアヘンは?

  ジャーディンさんがマニアック商会のパートナーになった1825年頃、ジャーディンさんがインドから輸入するアヘンは金額で450万ドル、数で5000チェストあり、中国に輸入される全アヘンの3分の1を占めていた。

  それがアヘン戦争前の1836年には476万ドル、7333チェストに増えたが、中国に輸入されるアヘン全体の量も増え、新規に参入する商人も多かったので、ジャーディン・マセソン商会のシェアは相対的に21%に落ちた。それでも、アヘンはジャーディン・マセソン商会にとって最も取引量の多い商品であり、中国でのシェアのナンバーワンを維持し続けた。     だから、アヘン戦争の前夜、林則徐さんに没収された全アヘン約2万チェストのうち、ジャーディン・マセソン商会のアヘンは7000チェストと最も多く、2番目に多かったデント商会の1700チェストを断然引き離していた。

  アヘン戦争が終わって南京条約では、アヘンについての表だった取り決めはされなかった。だが裏では、新しく開港された5港以外で、揚子江から南に関しては見て見ぬ振りをしましょうということになった。香港は新しいアヘンの拠点としてめざましい発展を遂げる。写真は、出典にはどこの風景とも記載されていないが、左の山が“The Thistle and the Jade”にある香港のEast PointのJardine siteから見た山の形に似ているので、私は古い香港ではないかとみている(東洋文庫のMorrison 写真集のAlbum of Hongkong Canton Macao Amoy Foochow Vol.1)。

  事実上、合法化されたアヘン貿易は増え続け、1856年には約7万チェストが輸入されるようになった。この年には第2のアヘン戦争といわれるアロー号事件が起き、天津・北京条約で中国は新たに北部や揚子江の港も開港せざるを得なくなった。

  俄然、有利になったのは、7隻のスクーナーを所持していたジャーディン・マセソン商会だった。それぞれの船長の担当地域を決め、揚子江流域、華北地方、東北地方へと販路を広げていった。ジャーディン・マセソン商会の取引量は1万1652チェストに増えるが、オリエンタル銀行から資金を得た中小の貿易商人の新たな参入によって、シェアはまたまた16.5%にまで落ちた。ジャ-ディン・マセソン商会の取引量は増えるものの、シェアの低落傾向に歯止めがかからない。

  1842年に開港した人口20万ほどの上海には、外国商社が進出し、租界ができ、人口も増え、急速に発展していった。上海の共同租界の裏世界を支配していたのは、もとは広東省出身の潮州商人の集まりで、紅幇(ホンバン)と呼ばれる秘密結社であった。   紅幇は1860年代には年に約8万チェストのアヘンを扱うようになったと言われる(阿片の中国史、167P)。そうだとすれば、彼らは中国に輸入されたほとんどのアヘンの販売を支配していたことになる。

  やがて、中国国内でもアヘンが栽培され、インド産アヘンの7割程度の価格で市場に出回るようになった。売り込み合戦は激化し、アヘンは値を下げた。

  そこに拍車をかけたのが、サスーン商会だった。サスーン商会はインド人のディーラーに前貸しをし、産地での青田刈りによって安価なアヘンを手に入れていた。これに対してジャーディン・マセソン商会は、カルカッタやボンベイの大手の現地商社からアヘンを購入し中国のバイヤーに売るという昔ながらのやり方で、当然価格競争に負けてしまう。1870年からジャーディン・マセソン商会のアヘンの輸入量は激減し、1872年には事実上アヘンの取引は停止した。

  だが、勝ち残ったサスーン商会にしても、1870年末にはアヘンの取引で大きな欠損を出し、アヘンから手を引いた。ジャーディン・マセソン商会が完全にアヘンから足を洗ったのは、1881年のことだった。

  その後、アメリカの宣教師達によってアヘン禁止に向けた国際世論が高まり、まず中国とイギリスが「そちらが先に止めれば、こちらも止めます」と中英禁煙条約を結び、アヘンの禁止を決定した。それでも、実施は10年後にしますと、歯切れは悪かった。  1911年に国際阿片会議が開かれ、1912年のハーグ条約によって国際的にもアヘンが禁止された。10年経って、1919年に中国での禁煙が施行された。

  それでも、アヘンは残った。   相変わらず密輸は横行し、中国各地の軍閥の資金稼ぎとしてアヘンは残った。   上海では、共同租界の紅幇たちが政府によって逮捕され勢力を削がれる間に、闇の製塩業者から始まった秘密結社の青幇(チンバン)がフランス租界でアヘンを扱うようになった。青幇の親分の杜月笙(トゲツショウ)は、フランス政府によってフランス租界の治安維持とアヘン販売の取り締まりを任されるという、不思議なことも起こった。   香港、シンガポール、インドシナ、台湾、関東州などの植民地では、アヘンは歳入の約半分を占めるほどの大きな専売税の収入源として残った(阿片の中国史、195P)。

参考文献   1)譚璐美:阿片の中国史 新潮新書、新潮社、2005

 

2)石井摩耶子:近代中国とイギリス資本 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に、東京大学出版会、1998   3)Maggie Keswick:The thistle and the jade A celebration of 150 years of Jardine, Matheson & Co., Octopus Books Limited, London, 1982

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