のむけはえぐすり 第86弾 原善三郎の話 その64 ジャーディン・マセソン商会 ところで紅茶は?2008年04月22日 19時45分15秒

横浜中華街の朝陽門の近く、中国茶専門の茶坊「翡翠」の店内の茶壺棚

のむけはえぐすり  第86弾

原善三郎の話  その64 ジャーディン・マセソン商会  ところで紅茶は?

 

アヘンと引き替えだったはずの紅茶なのに、「ジャーディン・マセソンの紅茶」というブランドは聞いたことがない。

 

1834年に東インド会社による中国茶の貿易の独占が廃止されたが、1858年までは東インド会社がなくなったわけではない。そのシェアに割り込むことは容易ではなかったようで、茶の輸出が本格的になるのは1844年からだった。

 

その頃の外国商人は、外国商会に属しその売買取引を全面的に請け負う中国人の仲介者(買弁)に、内陸での茶の買い付けを任せていた。それもアヘンとのバーター取引ではなく、現銀で購入していた。初めは香港や広東から輸出していたが、徐々に揚子江の中流域の茶を集めた上海からの輸出が多くなっていった。1850年からは、武夷茶の産地、福州からの輸出が加わり、1866年には上海と福州が二大輸出港となった。

 

ジャーディン・マセソン商会も初めの頃は、広東の中国人の茶商(公行)からの委託販売の手数料や前貸しの利息で稼いでいたが、1845年からは上海支店長のダラスさんが買弁を雇って茶を仕入れ、ロンドンに運んでマニアック・スミス商会などの代理店に売るという自己勘定を増やしていった。

 

だが、茶の取引は1844年から4年連続の赤字で、とりわけ46年と47年の損失は合計33万ドルにものぼった。1850年からの5年間もほとんど赤字で、1844年からの10年間の茶の取引は、4年間だけ黒字の通算4勝6敗だった。

 

そのてこ入れに、1854年、ロンドンのマニアック・スミス商会で茶の鑑定を学んだRobert Jardineさんが香港にやって来た。翌年から取引額は増え、利益を出すようになったが、投機に翻弄され損失を出した年もあって、1850年代後半は、まずまずの4勝1敗。

 

1860年代はジャーディン・マセソン商会にとって厳しい10年間になった。  

前半は太平天国の乱の影響で生産ラインと販売ルートが破壊されていたが、乱が終わって交通手段が回復すると、今度は外国商社や中国商人との競争が激しくなった。ジャーディン・マセソン商会の買弁の唐景星さんたちは、福州で足元を見られ、何を血迷ったか、高値で、しかも例年の3倍もの量を買い付けた。1863年には65万ドルもの赤字となり、5年も6年も在庫となった茶は結局、安値で売る羽目になった。  

そこに、1866年からの世界恐慌である。アメリカやオーストラリアへの輸出で少しはカバーできたが、1860年代の10年間は勝敗以上に痛手の大きい2勝8敗だった。

 

1870年代になると、他の外国商会や公行との乗合勘定が多くなり、ジャーディン・マセソン商会の取引額は減少していった。  

それは、1869年にスエズ運河が開通したことで、それまでのように高速帆船クリッパーで喜望峰を回るジャーディン・マセソン商会の得意分野がなくなり、大型の汽船にバラ積みが可能になり、中小の商人が参入できるようになったことが原因のひとつだった。  

また、ロンドンで茶の販売を請け負っていたマセソン商会がマーチャント・バンカーとして金融業務に専念しだし、茶の販売に熱が入らなくなったこともある。  

その上、セイロンやインドの紅茶、日本の緑茶が市場に出回るようになり、中国茶の需要はピーク時の7割前後、価格は5割近くにまで下落した。1870年代の10年間は、初めの2年間の白星だけで、2勝8敗。廃業寸前。

 

そんな訳で、「ジャーディン・マセソンの紅茶」がなかった理由が見えてきた。

 

例えば1700年頃にロンドンで創業されたトワイニングやフォートナム・メイソンのようなブランドは、東インド会社との結びつきが強く、イギリス国内でのシェアも強固だった。中国茶の貿易が開放された時に、ジャーディン・マセソン商会は代理店を通して中小の紅茶店に卸したのだろうが、そのような店から有名なブランドが出る余地はなかったと考えられる。  

さらに、中国以外からの茶の仕入が可能になった1870年前後に、セイロン紅茶でグラスゴーのリプトンや、ブレンド紅茶でマンチェスターのブルックボンドが創業している。新たなビジネスチャンスがあった時でも、ジャーディン・マセソン商会のロンドンの代理店には、取引先の紅茶店と一緒になって全国展開をしようという気はなかったようだ。ジャーディン・マセソン商会は茶の流通の中間業者であって、国内販売でブランド名を残すつもりもなかったと言うことだろう。  


写真は、横浜中華街の朝陽門の近く、中国茶専門の茶坊「翡翠」の店内の茶壺棚である。茶の産地を示した地図には、福建省の福州の近くに「正山小種(ラプサンスーチョン)」という紅茶があることが記されていた。その解説に、「かつてイギリス貴族を絶賛させたオリエンタルな紅茶。独特の松の香りがするスモーキーな香気が特徴で奥深い味わい」とある。その割には、お湯を小さなお茶碗のあっちに移したりこっちに移したり、せわしなく飲んでしまった。

参考文献

1)石井摩耶子:近代中国とイギリス資本 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に、東京大学出版会、1998

2)宮田道昭:中国の開港と沿海市場 中国近代経済史に関する一視点、東方書店、2006