第87弾 原善三郎の話 その65 ジャーディン・マセソン商会 ところで生糸は? ― 2008年05月01日 22時56分29秒
第87弾 原善三郎の話 その65
ジャーディン・マセソン商会 ところで生糸は?
シルクロードが開かれて以来、中国からヨーロッパへは伝統的な絹織物が輸出されていた。だが、消費国であったフランスやイタリアでは絹織物工業が発達し、1820年代後半からは原料の生糸の方の輸出が多くなった。東インド会社による生糸の独占はとうの昔に廃止され、1836年にはジャーディン・マセソン商会は中国からの輸出生糸の半分を取り扱うようになっていた。
お茶と同じように、初めは委託販売と前貸しの利息で商売していたが、やがて買弁を雇い、自己勘定を増やしていった。その頃は、利益が売り上げの約26%もあり、むしろ茶よりも割のいい商売と言えた。
だが、イギリスに運ばれた生糸は、最終的には工場のあるフランスのリヨンに運ばれる。新たに参入した多くの外国商社によって、ジャーディン・マセソン商会のシェアは減少し、1846年には20%にまでに落ちた。
そして、「黄金の50年代」に入る。
1850年代は生糸の輸出が拡大する。損益勘定を見ると、1855年にはアヘンの5倍、お茶の10倍の利益を生糸で稼いでいる。それは何もジャーディン・マセソン商会に限ったことではなく、1850年代というのは、中国生糸の輸出全体が初頭の2万俵から、3倍、4倍と増えた時代でもあった。
というのは、1852年にフランス南部から蚕病(微粒子病)が発生し、ヨーロッパにおける生糸の生産が壊滅的な打撃を受けたからだ。1860年代にはいると、蚕病はさらに南イタリアへと波及し、いよいよ生糸の供給は逼迫していった。そこに、太平天国の乱が上海に迫り、さらに折り悪く揚子江が氾濫して桑畑が壊滅するという出来事が重なった。ますます獲得競争が激化し、1850年代末にはジャーディン・マセソン商会のシェアは10.9%にまで下がった。
そんな1859年の2月、25才のKeswickさんは洋銀5万ドルを持って横浜にやってきた。
早速、Keswickさんは長崎の貿易商のMackenzieさんと乗り合いで127俵を買い付け、日本生糸の第1便を送った。Keswickさんを日本に派遣したWhittallさんは、その時の書簡で、「とにかく買えるだけ買え、大胆に買え、そして早く送れ」と催促している。 横浜からの生糸の輸出は、1859年の暮れから本格的になり、ジャーディン・マセソン商会の生糸の全輸出量の3割前後を占めるようになった。この日本生糸の輸出は1862年にピークを迎え、それ以降は減少に向かうが、とにかく「危機の60年代」の間も生糸に関しては、毎年20万ドル前後の利益があった。
ヨーロッパにおける蚕病が終わり、生糸の生産が回復し始めると、1868年のジャーディン・マセソン商会の生糸勘定は赤字に転落した。1869年からは仕入を大幅に控えるようになったが、それでもほぼ毎年赤字が続いた。
1874年頃から再び生糸の仕入は増えたが、基本的には赤字基調は変わらなかった。そんな中でも、仕入が最も多かった1877年(明治10年)を見てみると、日本生糸は全仕入の28%を占め、それ以上に世界の市場における日本の生糸商人の活躍が目立つようになった。
1881年には、ロンドンのマセソン商会が生糸の取引から撤退した。それを機に、ジャーディン・マセソン商会も、手数料取引へと重点を移す。善三郎が、売込商に生糸を売っていた荷主から、手数料を稼ぐ売込商になり、さらに巨大売込商へと転じた軌跡と重なる。
写真は、ジャーディン・マセソン商会があった旧英国一番館、現横浜シルクセンターで求めた繭玉と生糸である。館内には、ややピンクの「蚕太」、ブルーに見える「新青白」、黄金色の「ぐんま黄金」など、いくつかの種類の生糸の束が展示されていた。生糸は蚕が育つ産地と種類によって、随分差があるようだ。中でも驚いたのは「世紀二一」で、織り上げられた布に見えるほどの繊細な生糸だった。 そこで思い出すのは、広東産の生糸の話だ。広東産の繭は小さく、一個から400ヤードも取れればいい方だが、その繭から取れた生糸は極めて繊細で、当時ヨーロッパで流行した喪服用の撚糸になったと言われている。「世紀二一」のような糸だったのではないかと思った。
参考文献 1)石井摩耶子:近代中国とイギリス資本 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に、東京大学出版会、1998 2)Maggie Keswick:The thistle and the jade A celebration of 150 years of Jardine, Matheson & Co., Octopus Books Limited, London, 1982
新連載”よっちゃんのグルメ日誌”スタートです ― 2008年05月01日 23時00分31秒
新連載のスタートです
グルメのよっちゃんが綴る美味しいもの三昧です(といいながら当面はフライペンの美味しいものの紹介です。そのうちにその他もくるかも)
とりあえずご挨拶代わりにフライペンの語源と一緒のヒャンフィ様です
チョコのカキコにもありましたが”いつも綺麗ですね”(^_^)
(決して”ふくよか”なんていわないですよね>まりあぱぱ)
GWはみなさんソウルですか・・・羨ましいですね
・・・ところでクルム伊達公子は凄いですね。今日の2回戦も勝っちゃったね。彼女のブログがあるんですが”なんと自宅にあのハンカチ王子愛用で有名になった酸素カプセル”があるんですね。グラフとの試合に備えて練習してるときも練習後にあのカプセルの中で熟睡していたそうです。羨ましいなぁ。。。
伊達さんのブログ;http://ameblo.jp/kimiko-date
よっちゃんのグルメ日誌;第一弾 ― 2008年05月03日 22時19分38秒
は~い みなさん、全国GWですね。ソウルに行けた人もゴルフ三昧の人も。。
よっちゃんのグルメ日誌第一弾はハンバーグです
よっちゃん;お袋の味です
陰の声;なんたって「韓国家庭料理のお店」ですからね、フライペンは
ところで話は変わりますが・・・すぐ変わる(^_^)・・・今日の「世界不思議発見」で「西オーストラリア特集」としてかの「パース近郊 荒野の墓標 ピナクルズ」が紹介されてましたね。西オーストラリアは自然そのものですからいいところですね。皆さんも是非一度行ってみて下さい。
そういえば前回優勝のTパパがパースは詳しいんですよね。
もう一件;クルム伊達は凄いを通り越しましたね
シングルス、ダブルス共決勝進出ですよ。ここまできたら是非優勝して欲しいですね。それにしても予選からシングルス、ダブルスを6日間連ちゃんできるのは凄い体力ですね。
僕も見習うことにしました。早速明日からトレーニングをふやさなくちゃ (^^♪
虞美人草 ― 2008年05月05日 06時27分36秒
ポピー ― 2008年05月06日 19時58分37秒
黄色いヒナゲシ ― 2008年05月06日 20時05分04秒
のむけはえぐすり 第88弾 原善三郎の話 その57 ジャーディン・マセソン商会 ところで買い付けと買弁は? ― 2008年05月06日 20時09分23秒
のむけはえぐすり 第88弾
原善三郎の話 その57 ジャーディン・マセソン商会 ところで買い付けと買弁は?
生糸は繭の産地と種類によって、品質に随分差があるらしい。外国商社にとって、できれば質のいい繭を、しかも安く仕入れたい。国内の流通ルートに分け入り、養蚕農家から生糸や繭を直接買い付けることができれば、その利益は大きい。
以前、のむけはえぐすりの第25弾で、ドイツのKniffler商会が身分を偽った日本人に蚕種を買い付けさせ、横浜から違法に輸出しようとして発覚したことを紹介した。国際問題にもなり、生糸改会社の社長であった善三郎がその対応に苦慮した、あの一件である。内地買い付けは、中国でも起きた。
中国のジャーディン・マセソン商会の場合、内地へ買い付けに向かったのは、メイジャーさんだ。メイジャーさんはイタリアのナポリで製糸工場を営んでいたが、蚕病の流行で経営が行き詰まり、自ら売り込んで1859年に中国にやって来た。当時、上海の支配人であったWiittallさんは、メイジャーさんの言うように1861年に上海に製糸工場を建設し、中国の内地から繭を集め、当時最先端のナポリの製糸技術を導入して良質な生糸を生産しようとした。
その工場からはそれなりに評価の高い生糸を生産することができたが、どうにも腕のいい労働者が定着しないのと、希望にそった繭が調達できないことで、生産量が予定の4分の1にも満たなかった。工場のために別枠で上質な繭の買い付けを中国人の買弁に依頼しても、いつの間にか手数料が高くとられ、その上、買弁が勝手に投機買いをして、工場での必要量の5倍もの粗悪な繭を仕入れてくる。怒ったメイジャーさんは、1864年に自ら内地買い付けに出かけることにした。
だが、新たに雇い入れた買弁たちも好い加減な上、それまでの買弁たちが面子にかけて邪魔をする。浙江省の当局からは、建設中の倉庫が破壊されたり、協力者が投獄されたりといった弾圧を受ける。フランス商人との買い付け競争の中で、養蚕農民たちからは売り控えられる。結局、メイジャーさんがどうにか調達した繭も、高くて質の悪いものばかりだった。大した実績も上げられないまま、1869年にメイジャーさんが亡くなり、ジャーディン・マセソン商会の中国初の近代製糸工場と繭の内地買い付けの目論見はあえなく潰えた。
ジャーディン・マセソン商会の外国人商人は、中国内地の流通に入り込むことはできなかった。それは養蚕農家から外国商社に至るまでの流通の過程に、何層にも商業ギルドが築かれ、当局を巻き込んでさまざまな妨害が行われたからだ。
結局、実際に内地での買い付けができたのは、買弁であった。初めて中国に来た外国人にとっては、言葉の障壁があり、内地への立ち入りは条約で日帰りの旅行が許されていただけだったので、農村地帯に行って商売をすることは不可能だった。それをやってくれる中国人を外国商社が雇い入れたのが、買弁の始まりだった。外国商人と一緒にやって来た広州人の買弁を、上海の人々は初め、「康白度」(comprador)と呼んでいた。
だから、一般的に買弁とは、西洋商会に属して、その売買を全面的に請け負う中国人ということになるが、いつ頃からか、外国の利益に奉仕して自国民を抑圧する中国人という風な意味が込められるようになった。
買弁は、太平天国の乱で混乱した流通の穴を埋めるように、1860年代に発達し、現銀を持って内地で生糸を買い付けてきた。乱が終わると買弁は減少し、代わって生糸関係では絲桟(しさん)と呼ばれる、内地の商人から販売を委託され、生糸を西洋商人に売り込む商人が生まれた。この絲桟は自分たち以外の商人の参入を許さず、構成員同士の競争を制限して、厳しく流通を管理した。これに対して、外国商人側はこの頃できた銀行から盛んに金を借りることによって、新たな参入が容易になり、競争が激化した。当然、貿易は過剰になり、売り手市場になった。
そういうことがお茶でも、アヘンでも起こり、内地買い付けに失敗したジャーディン・マセソン商会の商業活動は圧迫されていったというのが、これまでの「ところでシリーズ」の話だ。ジャーディン・マセソン商会は別の企業形態へと変貌を余儀なくされていくというのが、これからの話になる。
写真は、The thistle and the jadeにあった買弁(Comprador)の肖像画だ。見るからに、tycoon(ボス)という風情だ。ジャーディン・マセソン商会の買弁たちは、稼いだ資金を投資して中国の産業の発展に尽くすようになる。唐景星(Tong King-sing)さんは汽船と鉱山に投資し、Ho TungさんはChina Coastの大株主になり、Chu Ta-Ch’unさんは中国で最大の投資家になった。
1900年に香港に設立された中国人商工会のメンバーは、全てJardine関係の買弁たちであったという。
参考文献
1)M. Keswick: The thistle and jade 前出 2)宮田道昭:中国の開港と沿海市場、前出 3)石井摩耶子:近代中国とイギリス資本、前出 4)横浜と上海 近代都市形成史比較研究、「横浜と上海」共同編集委員会編、横浜開港資料普及協会、1995
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