ポピー2008年05月06日 19時58分37秒

ヒナゲシ

ヒナゲシ 野生の種は赤い花だが、園芸種はピンク、オレンジなどがある。

5-6月頃に花を付け、1年草で栽培が簡単

黄色いヒナゲシ2008年05月06日 20時05分04秒

黄色いヒナゲシ

ケシの花

中国名は罌粟(おうぞく)。

古代の瓶のように、実がトックリのような形で、中に粟のように細かいケシの種がびっしり詰まっているという意味。

のむけはえぐすり 第88弾 原善三郎の話 その57 ジャーディン・マセソン商会 ところで買い付けと買弁は?2008年05月06日 20時09分23秒

The thistle and the jadeにあった買弁(Comprador)の肖像画

のむけはえぐすり    第88弾

原善三郎の話 その57  ジャーディン・マセソン商会 ところで買い付けと買弁は?    

生糸は繭の産地と種類によって、品質に随分差があるらしい。外国商社にとって、できれば質のいい繭を、しかも安く仕入れたい。国内の流通ルートに分け入り、養蚕農家から生糸や繭を直接買い付けることができれば、その利益は大きい。

 

以前、のむけはえぐすりの第25弾で、ドイツのKniffler商会が身分を偽った日本人に蚕種を買い付けさせ、横浜から違法に輸出しようとして発覚したことを紹介した。国際問題にもなり、生糸改会社の社長であった善三郎がその対応に苦慮した、あの一件である。内地買い付けは、中国でも起きた。    

中国のジャーディン・マセソン商会の場合、内地へ買い付けに向かったのは、メイジャーさんだ。メイジャーさんはイタリアのナポリで製糸工場を営んでいたが、蚕病の流行で経営が行き詰まり、自ら売り込んで1859年に中国にやって来た。当時、上海の支配人であったWiittallさんは、メイジャーさんの言うように1861年に上海に製糸工場を建設し、中国の内地から繭を集め、当時最先端のナポリの製糸技術を導入して良質な生糸を生産しようとした。

 

その工場からはそれなりに評価の高い生糸を生産することができたが、どうにも腕のいい労働者が定着しないのと、希望にそった繭が調達できないことで、生産量が予定の4分の1にも満たなかった。工場のために別枠で上質な繭の買い付けを中国人の買弁に依頼しても、いつの間にか手数料が高くとられ、その上、買弁が勝手に投機買いをして、工場での必要量の5倍もの粗悪な繭を仕入れてくる。怒ったメイジャーさんは、1864年に自ら内地買い付けに出かけることにした。

 

だが、新たに雇い入れた買弁たちも好い加減な上、それまでの買弁たちが面子にかけて邪魔をする。浙江省の当局からは、建設中の倉庫が破壊されたり、協力者が投獄されたりといった弾圧を受ける。フランス商人との買い付け競争の中で、養蚕農民たちからは売り控えられる。結局、メイジャーさんがどうにか調達した繭も、高くて質の悪いものばかりだった。大した実績も上げられないまま、1869年にメイジャーさんが亡くなり、ジャーディン・マセソン商会の中国初の近代製糸工場と繭の内地買い付けの目論見はあえなく潰えた。

 

ジャーディン・マセソン商会の外国人商人は、中国内地の流通に入り込むことはできなかった。それは養蚕農家から外国商社に至るまでの流通の過程に、何層にも商業ギルドが築かれ、当局を巻き込んでさまざまな妨害が行われたからだ。

 

結局、実際に内地での買い付けができたのは、買弁であった。初めて中国に来た外国人にとっては、言葉の障壁があり、内地への立ち入りは条約で日帰りの旅行が許されていただけだったので、農村地帯に行って商売をすることは不可能だった。それをやってくれる中国人を外国商社が雇い入れたのが、買弁の始まりだった。外国商人と一緒にやって来た広州人の買弁を、上海の人々は初め、「康白度」(comprador)と呼んでいた。    

だから、一般的に買弁とは、西洋商会に属して、その売買を全面的に請け負う中国人ということになるが、いつ頃からか、外国の利益に奉仕して自国民を抑圧する中国人という風な意味が込められるようになった。

 

買弁は、太平天国の乱で混乱した流通の穴を埋めるように、1860年代に発達し、現銀を持って内地で生糸を買い付けてきた。乱が終わると買弁は減少し、代わって生糸関係では絲桟(しさん)と呼ばれる、内地の商人から販売を委託され、生糸を西洋商人に売り込む商人が生まれた。この絲桟は自分たち以外の商人の参入を許さず、構成員同士の競争を制限して、厳しく流通を管理した。これに対して、外国商人側はこの頃できた銀行から盛んに金を借りることによって、新たな参入が容易になり、競争が激化した。当然、貿易は過剰になり、売り手市場になった。

 

そういうことがお茶でも、アヘンでも起こり、内地買い付けに失敗したジャーディン・マセソン商会の商業活動は圧迫されていったというのが、これまでの「ところでシリーズ」の話だ。ジャーディン・マセソン商会は別の企業形態へと変貌を余儀なくされていくというのが、これからの話になる。      

写真は、The thistle and the jadeにあった買弁(Comprador)の肖像画だ。見るからに、tycoon(ボス)という風情だ。ジャーディン・マセソン商会の買弁たちは、稼いだ資金を投資して中国の産業の発展に尽くすようになる。唐景星(Tong King-sing)さんは汽船と鉱山に投資し、Ho TungさんはChina Coastの大株主になり、Chu Ta-Ch’unさんは中国で最大の投資家になった。  

1900年に香港に設立された中国人商工会のメンバーは、全てJardine関係の買弁たちであったという。

参考文献

1)M. Keswick: The thistle and jade 前出  2)宮田道昭:中国の開港と沿海市場、前出 3)石井摩耶子:近代中国とイギリス資本、前出 4)横浜と上海 近代都市形成史比較研究、「横浜と上海」共同編集委員会編、横浜開港資料普及協会、1995