のむけはえぐすり 第101弾 原善三郎の話 その79 香港マカオ取材旅行 マカオ・林則徐記念館2008年08月26日 05時10分04秒

のむけはえぐすり;アヘンの吸飲具

のむけはえぐすり  第101弾

原善三郎の話 その79 香港マカオ取材旅行 マカオ・林則徐記念館

 

珠江河口を東岸の香港から西岸のマカオまで、スターフェリーの高速船で1時間。途中の水路の両側には、今でもアヘン船が隠れていそうな大小の島々が見える。

 

マカオで入国審査をすませ、早速、林則徐記念館に向かう。記念館がある蓮峯廟(リンフォンミウ)という道教寺院は、かつて中国の役人の宿でもあり、林則徐さんも逗留したことがある。  

記念館の玄関横には、林則徐さんの立像がある。アヘン根絶のために皇帝から特命を受けた欽差大臣として、大英帝国と渡り合った風格を漂わせている。

 

玄関を入ると、「1785~1850」と銘の入った林則徐さんのブロンズの胸像がある。  

館内でまず目につくのは、手前から二番目のガラスケースの中にあるアヘンの吸飲具だ。写真右上の烟球と呼ばれるアヘンの固まりは大きめのリンゴほどで、チョコレート色に光っている。高さ10センチほどの小さな鳥かごのようなものは、烟燈というアヘンを燻す道具なのだろう。そのうしろ、煙を逃さないための蓋がついたキセルが烟槍か。左の手前に2個分のチューインガムを吐き出したような塊が3個置かれているが、1個が1回分のアヘンということらしい。何に使うのか、耳掻きと七味唐辛子のような入れ物もある。

 

古い絵のレプリカの展示が続く。18世紀末のマカオの東インド会社商館。インドのアヘンの貯蔵庫。ジンギスカンと間違えそうな風貌に描かれた林則徐さんの肖像画には、福建の生まれで、字は元撫、または少穆(しょうぼく)と表示されている。

 

次のコーナーには、アヘン戦争関係の絵が並ぶ。アヘン戦争で勇敢に戦って戦死した關天培将軍。林則徐に協力した両広総督の鄧廷楨さん。虎門でアヘンを廃棄した時の絵には、空箱に埋もれて忙しそうな役人たちの姿が描かれている。空箱の先の海からは白煙が上がり、横で満足そうに髭をなでながら見守る林則徐さんが描かれている。

 

右奧の肖像画は魏源さんだ。この人の肖像画があったことで、幕末の日本で一世を風靡したベストセラー、魏源さんが著した「海国図志」への期待が高まる。魏源さんは、字は黙深、湖南省の人で、清末の進歩的思想家と紹介されている。「受林則徐的嘱託」と書かれ、林則徐さんからネタ本の「四洲志」を託されたことがここにも記されている。

 

やはり、「海国図志」と「四洲志」があった。「四洲志」は林則徐さんが監修してイギリス人の「慕瑞所」さんの「世界地理大全」を翻訳した書だと記されている。「四洲志」はGeography of four continentsと英訳され、四洲とは4大陸という意味だった。

 

展示場の右には、模型の船が三隻並んでいる。  

奧から、「英国装 運鴉片的 走私船」。これが「快蟹」(クワイシェ)だろう。70人ほどの漕ぎ手が漕げるように両舷にオールが並んでいる。広東との間を行き来した当時の最速船だが、太いマストと帆があるのにも驚いた。  

次が、「中国水師船 船模」。清国海軍の軍船らしい。ずんぐりした大砲が甲板に並んでいるが、木造船で何となく頼りない。あのアヘン戦争の絵で、マストが吹っ飛び、沈没しかかって描かれていた船だ。  

最後が、「停泊在広東 怜イ丁洋面的 英国鴉片躉船」。怜イ丁洋は、今朝、現代のJardineの快速船で走り抜けた水路のことだ。その水路にある島に隠れていたのがこの躉船(トンセン)で、アヘンの貯蔵船だ。両舷の窓が全て閉じられていて、不気味な雰囲気がある。

 

展示場の中央には、等身大の人形の展示がある。真ん中に林則徐さんがいて、右には困った顔をしてうつむくポルトガル代表、横でさえない顔の通訳が何やらささやいている。左には鄧廷楨総督が傲然と構えている。林則徐さんが蓮峯廟にマカオのポルトガル政府代表を呼びつけ、アヘンの禁止と清英関係に中立を約束させた会談を再現しているという。

 

館内至るところに林則徐さんの勇ましい功績が語られている。だが、林則徐さんは初戦の敗戦の責任をとらされ、罷免され、辺境に左遷された。それでも再び請われると、病をおして新たな任に赴いている。赴任の途中で力尽きたのが、胸像にあった享年1850年である。それを伝える展示は、ここにはなかった。