第127弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 山城の秦氏 蚕ノ社2009年06月25日 20時47分30秒

のむけはえぐすり;三柱鳥居

第127弾  のむけはえぐすり
古代の帰化人 山城の秦氏 蚕ノ社

京都の嵐山電鉄の太秦広隆寺駅から線路の300m程先に、次の駅、蚕ノ社が見える。電車に乗らず、そのまま駅名の由来となった蚕ノ社へと歩いていく。

ほどなく、こんもりとした杜が見え、道路に面して太い丸木の鳥居がある。両側の苔が浮いた石燈籠には、蠺養社と書かれている。

小さな神社の右手には石碑があり、式内郷社 木島坐天照御魂神社とある。「このしまにます・あまてるみたま」神社と読むのだが、古来より祈雨の神社とされ、朝廷から祈雨の奉幣が行われていた。

写真は、本殿左の杜の中にある元糺(もとただす)の池である。古い写真を見ると湧水をたたえているが、今はご覧のように枯れている。石が小高く盛られた中心を守るように三本の柱が立てられ、三つの島木と貫(ぬき)で繫がれている。三方どちらからでも参拝できるというわけだ。三柱鳥居と呼ばれ、他に類がない。この池に湧水が溢れると、雨が降る前兆ぐらいの話はあったのかもしれない。

境内にある由緒書きには、木島坐天照御魂神社の祭神が、天之御中主神(あめのみなかのぬしのかみ)、邇邇藝命(ににぎのみこと)、穂々手見命(ほほでみのみこと)、鵜葦草葦不合命(うがやふきあえずのみこと)の四柱とある。天之御中主神は高天原で、記紀の神々の頂点にいる神様だ。邇邇藝命は天孫降臨の主役で、天照大御神の命を受けて日本を治めにやって来た。だから名前に命がついている。穂々手見命は海彦山彦伝説の海彦のことで、その子供の鵜葦草葦不合命は神武天皇のお父さんという血筋だ。記紀神話の古い神々を、これほどまとめて祭っている神社というのも珍しい。この神社は広隆寺の創建とともに勧請されたともいわれ、701年にはこの神社の記録が残っている。

蚕ノ社は木島坐天照御魂神社の本殿右横に、申し訳なさそうに鎮座している。由緒書には、雄略天皇の時に秦酒公が中国の南朝から漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)の職人を呼んで絹、綾を織ったと書かれている。その報恩と繁栄を祈願して、推古天皇の時代に養蚕、織物、染色の祖神として勧請されたとある。

ところが、日本書紀には、5世紀末から南朝や百済からやって来た漢織、呉織の職人や、
6世紀に宮廷工房で錦部(にしごり)呉服部となった手末才技(たなすえのてひと)は、漢氏が呼び寄せたと書かれている。秦氏ではなかったはずだ。

秦氏の織り方は経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に浮き沈みさせて織る平織りが主で、5世紀以前の新羅系の「古式布機」と呼ばれる古い技術だった。平織りは丈夫で摩擦に強く、織り方も簡単で、広く用いられた。これに対して、綾織は経糸が緯糸の上を2本、下を1本が交差して織られていく織り方だ。伸縮性に優れ、しわがよりにくく、しなやかに見え、平織りよりは新しい技術だった。こういう優雅な織り方を伝えた今来漢人(いまきのあやひと)は、漢氏の東漢直掬に所属した。

機織に限らず、秦氏が伝えた技術は、同じころに百済や中国の南朝からやって来た漢氏支配下の技術者よりも、一時代前の技術が多かったようだ。鋳造技術でいえば、秦氏が伝えたのは主に銅の加工技術で、漢氏は百済系の「韓鍛冶部」による砂鉄、鉄鉱のタタラ吹きと呼ばれる製錬法や鍛鉄の方法であった。木工技術も、百済仏教の輸入とともに始まった仏殿や宮殿の建築技術を担ったのは漢氏であった。

そのため、同じ帰化人でも、漢氏が宮廷で重用され官人化したのとは対照的に、秦氏は地方で土豪化するものが多かった。その基盤となったのが、秦人、秦部、秦人部などの貢献民で、中部地方から四国、九州北部、中国地方に分布している。その数は想像以上に多く、欽明天皇の時には7053戸を数え、1戸23人と計算して16万2219人と推定されている(水野、236p)。

各地の秦部から上がる貢献物も莫大で、その財力を背景に聖徳太子の側近となった秦河勝のような人物もいれば、朝廷の蔵の出納係となった秦久麻のような人物もいる。だが、歴史に名が残る人物が少ないのは、朝廷の高位高官になった者が少なかったからだ。

京都における秦の民の絹織物や染色の技術は、その後も絶えることなく続いた。
1467年、京都に応仁の乱が起きた。細川家と山名家に分かれた両軍の激しい陣所の奪い合いによって、京都は一面が焼け野原となった。戦火を逃れ、機織の職人たちは地方に四散した。戦いが終わると、職人たちは地方で新たな技術を学んで戻ってきた。細川の東陣跡には白雲村の練貫職人集団が住み、山名の西陣跡には秦氏ゆかりの綾織物職人集団である大舎人座の人々が住んだ。しばらくシェア競争が続いた後、大舎人座の職人が勝ち残り、足利家に雇用され、京都の絹織物を独占することになった。今も西陣という住所はないが、西陣織の織物産業が集中する地域はここから近い。

本殿下の石垣には、「陳西 縮縮緬仲間・文化十四年」と銘打たれた石がはめ込まれている。江戸時代にはこの神社が織物や染色の守り神として親しまれていた証拠だ。蚕ノ社はこの神社の摂社の扱いだが、駅名に蚕ノ社とつけられたのは、この神社で親しまれていたのは西陣織の発展とともに蚕ノ社の方だったからだと思う。

参考文献
1) 平野邦雄:帰化人と古代国家、吉川弘文館、2007
2) 水野祐:高句麗壁画 古墳と帰化人、雄山閣、1972

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