第129弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 山城の秦氏 伏見稲荷の千本鳥居2009年07月15日 03時33分05秒

伏見稲荷の千本鳥居

第129弾  のむけはえぐすり
古代の帰化人 山城の秦氏 伏見稲荷の千本鳥居

 京阪線伏見稲荷駅から参道を歩いて行くと、早速、赤い鳥居の横に「官弊大社稲荷神社」と書かれた石碑がある。稲荷寿司やら鳥の丸焼きを売る門前街を抜けると、広場の中に桜門がそびえ立つ。

 桜門は、豊臣秀吉が母の病気回復を祈願し、病が平癒したことによって建てられた。実際に、昭和48年の解体修理の際に、天正17年と年号の入った秀吉の「命乞いの願文」が見つかっている。

 その奥に、帰化人の秦伊呂具によって創建された本殿がある。秦伊呂具は松尾神社を創建した秦忌付都理(いみき・とり)とは兄弟だったと伝えられていることから、この地、深草の秦氏は葛野の秦氏の分家だったようだ。それを意識してか、稲荷神社の言い伝えは、何事も葛野の松尾神社よりは年代が下がる。例えば、松尾神社の創建は大宝元年(701)だが、伏見稲荷は和銅4年(711)というように。

葛野の秦氏が開墾して住み始めたのが雄略天皇の5世紀だったと伝えられるが、稲荷神社ゆかりの秦氏が歴史に登場するのは、欽明天皇の539年である。欽明天皇の幼い頃の夢に、秦大津父(おおつち)というものを登用すれば、天下は丸く治まるというお告げがあった。即位後、探し出して話を聞いてみると、秦大津父は伊勢へ商売に行った帰りに、稲荷山の南の大亀谷で2匹のオオカミが争って傷ついているのをみて、「そんなことをしていると狩人が来て捕まるぞ」と諭したという。この話に感動した欽明天皇は、秦大津父を大蔵の役人で掾(じょう)の位の中間管理職として迎えた。

この話の中で、秦大津父が伊勢まで商売に行ったというが、どうも丹(に)を扱っていたらしいのだ。

丹は辰砂(しんしゃ)とも呼ばれる鉱物である。丹には二つの利用法がある。ひとつは、弥生遺跡の甕棺の内側に塗られていたように、古くから防腐剤や呪術性を持った赤色顔料として用いられていた。

万葉集(328)に「青丹(あをに)よし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり」という小野老が詠んだ歌がある。奈良の枕詞である「青丹よし」の青というのは緑のことで、緑豊かな中に丹を塗られた赤い柱の建物が美しく映える奈良の都、という意味である。やや黄味を帯びた赤色の丹は神社や宮殿の柱に塗られ、華やかさを演出していた。顔料や医薬品としても使われ、私たちが知るところでは、朱肉の原料でもあった。

古来、丹の産地として有名だったのは伊勢国、今の多気郡の丹生(にう)である。この丹生という地名は各地にあり、丹の産地であるとともに、丹生氏が支配していた地域であったことがうかがえる。

ところが、丹のもう一つの利用法が日本に伝えられた。これを伝えたのが、古代の帰化人、秦氏のようなのだ。化学式で言えば硫化水銀であるこの鉱石を細かく砕き、500度前後に熱し、出てきた蒸気を急激に冷やすと、きらきらと輝く水銀が蓮の葉の上の水滴のようになって残る。

水銀はどんな金属とも簡単に合金を作る性質があり、できた合金は「柔らかい固まり」という意味のギリシャ語を語源として、アマルガムと呼ばれている。アマルガムは金や銀の精錬にも利用された。金や銀の鉱石を微細に砕き、水と水銀を加えて攪拌すると、水銀に金や銀が溶け込む。それを皿の上にのせて加熱すると、水銀は蒸発し、残った金や銀が採取できる。
これを応用して、金が溶け込んだ水銀のアマルガムを銅の仏像に塗り、加熱して水銀を飛ばせば、金が表面に残り、立派な金メッキになるというものだ。

仏教の伝来とともに、各地で仏像の製造が盛んになり、銅の需要が増した。701年に発布された大宝律令によって鉱物資源の開発が奨励されると、各地で銅の発見が相次いだ。喜んだ朝廷は708年に、年号を和銅へと改元したほどだ。

同時に、銅像に金メッキを施す秦氏の重要性は増す。赤色顔料の原料として丹を採取していた伊勢の丹生氏とは、いつの間に主客転倒する。金銀の生産に携わる秦氏の財力は、天井知らずに増えていった。それが、秦伊呂具による和銅4年(711)の稲荷神社の創建につながったといえるだろう。

問題は、水銀の蒸気を吸った秦の民である。奈良の東大寺の大仏が、聖武天皇の命によって作製され、752年に完成した。大仏には金メッキが施され、工事の期間中、流行病とおぼしき病が発生したことが知られている。水銀は蒸気になって吸い込むほど毒性が強い。神経が蝕まれ、やがて立つことも覚束なくなり、廃人のようになって死ぬ。

写真は、伏見稲荷の赤い千本鳥居である。強い日差しに照らされて、隙間なく並んだ赤い鳥居のトンネルの中は、漏れてくる日差しが未来へとワープするような幽玄な雰囲気を醸し出している。約1万本あるといわれている鳥居の1本1本に、奉納者の名前と住所と奉納年月日が記されている。住所は全国各地に及んでいるが、年代はほとんどが平成である。鳥居を通ることで、願いが通ると信じた人々が、何十世代にも渡って掛け替えてきたのだろう。

秀吉が伏見稲荷神社に母の病の回復を祈ったのは、古くからここには病気平癒の信仰があったのだろうか。大仏を作り、病に蝕まれた秦の民が、氏神である稲荷神社に参拝すると回復した。その回復が水銀を扱う現場を離れたことによる「夢のまた夢」なのに、丹が塗られた赤い鳥居を通り抜けた御利益と信じたのかも知れない。

参考文献
1)加藤謙吉:秦氏とその民 渡来氏族の実像、白水社、2009
2)伏見稲荷大社公式ホームページ

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