第130弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 山城の秦氏 枕草子2009年07月28日 21時52分40秒


第130弾  のむけはえぐすり
古代の帰化人 山城の秦氏 枕草子

 伏見稲荷の千本鳥居を通り、10分ほどで奥社に至る。

その先は再び赤い鳥居の道が写真の熊鷹社へと続き、そこから稲荷山の山頂を一回りする径がある。今は雑木の森のこの辺りは、かつてはうっそうとした木々に覆われていたようだ。

というのは、8世紀末、京の九条大宮に東寺が建てられた折、秦氏は稲荷山の木材を供出したというのだ。それ以降、稲荷社は東寺の鎮守神となり、稲荷信仰は空海・弘法大師の真言宗とともに全国に広がっていった。

 その200年後、清少納言が伏見稲荷を訪れている。枕草子の158段に、「うらやましげなるもの」とある。第一は、お経をすらすら読める人。第二は、何の悩みもなさそうに笑って歩いている人。第三は、稲荷神社にお参りした時に会った人だという。

 枕草子では「中の御社のほど」というから、まさにこの辺りと思われるが、清少納言が疲れと暑さに参って休んでいると、元気に上から降りて来る四十過ぎの女性がいた。この普段着の女性は「私は今日中に七度は詣でるつもりです。これで三度目なので、あと四度はどうということはありません」と言いながら、すたすたと降りていった。清少納言の目には、このアラフォーの女性が、いとうらやましげに映ったようだ。枕草子のこの記述によって、清少納言が生きていた10世紀の後半には、稲荷神はすっかり朝廷と民衆の間に溶け込んでいたことが分かる。

これからの話には、周防灘を囲む地域の豊前国の秦氏が登場する。

608年に隋の使者の裵世清が遣隋使の小野妹子とともに秦王国を訪れたと、隋書に記されている。古代の豊前国は住民の九割が秦の始皇帝の末裔と自称する秦の民であったので、豊前国がその秦王国に比定されている。秦氏が濃密に分布する豊前国は、大分県中津市を流れる山国川によって、筑紫の福岡寄りの田川市にある香春(かわら)神社を中心とした勢力と、宇佐市にある宇佐八幡神社を中心とした勢力に分けられていた。

香春神社は銅を産出する香春岳の麓にあり、祭神は辛国息長(からくにおきなが)大姫大目命である。豊前風土記の逸文には、この神は新羅の神であると記されている。

時代は降って、804年に遣唐使の船で唐に渡った二人の僧がいた。比叡山延暦寺で天台宗を開いた最澄と、高野山金剛峯寺で真言宗を開いた空海である。この二人とも、香春の地に関係がある。漢(あや)系の帰化人三津氏の出自である最澄は海を渡る前に、香春岳に籠もった。秦氏出身の僧に師事した空海は、帰国後、香春岳を訪れたというのだ。その際、空海は筑紫で稲の荷を背負った太夫に会い、ともに仏法を守り広めることを約束したと、後の「弘法大師伝抄」に記されている。この書では稲荷の太夫が伏見稲荷を創建したというのだが、稲荷社の創建はもっと古い時代のはずだ。この話は、稲荷神が豊前国の秦氏の民間で信仰されていた神であったことを示している。

一方、八幡神社の方は、八幡をヤハタとも読むので、いかにも秦氏と結びつけて考えられそうだが、むしろそうした考えは少ない。古来、「八」には多いという意味があり、八幡はたくさんの旗と解されているようだ。

香春にいた秦氏が、山国川を渡って南下し、宇佐で祀ったのが八幡神で、基本的には香春の母子神と同じだと、大和岩雄氏はいう。祀った氏族は辛島を名乗り、八幡神のご神体は香春の採銅所で作られた鏡であり、鷹が八幡神の化身となった。

古くから豊国には医術に名声の高い奇巫(くしかむなぎ)や法師がいて、天皇の病気をたびたび治したとされている。豊国奇巫や法師への関心が、八幡神の日本化へと向かわせることになり、朝廷の信頼を集め、8世紀には国家鎮護の神へと昇格したと考えられている。この過程で祭神であった息長大姫の母子神も神功皇后と応神天皇に擬された。宇佐八幡神に関わる秦氏は、東大寺建立と752年の大仏開眼の折には、資金的にも技術的にも人的にも多大に貢献している。

清少納言の枕草子の287段には、「神は、松の尾、八幡・・・、賀茂さらなり、稲荷」とあり、清少納言は何度も石清水八幡宮に詣でている。清少納言がいた10世紀末には、八幡神が朝廷や庶民の間で信仰されていたことが分かる。

 秦氏の宗教が日本に根付いた例は、仏教の世界にもある。

 弥勒菩薩は兜率天(とそつてん)という別世界にいて、お釈迦様が入滅してから56億7千万年後に人間世界に下生され、一切衆生を済度する未来の仏である。弥勒菩薩を信じ、弥勒の名を称えれば、兜率天に往生できると信じられ、当時としては珍しく在家者のための信仰といえるだろう。

新羅には貴族の少年の中から美貌で徳行のある者を選んで花郎とする花郎制度があった。花郎には洞窟に籠もり一定期間、斎戒修行する習わしがあった。この花郎が籠もる洞窟を新羅では弥勒堂といい、花郎を弥勒とみる発想があった。だから、弥勒信仰は新羅仏教の特徴といえる。

その弥勒信仰を伝える弥勒半跏思惟像が、新羅から聖徳太子に贈られた。その仏像を新羅からの帰化人である秦河勝が、氏寺の広隆寺に安置した。聖徳太子が建立したとされる七つの寺のうち、法隆寺が釈迦像を本尊としている他は、弥勒菩薩が本尊であり、弥勒信仰は7世紀前半に秦氏を中心に始まったといえる。

清少納言の枕草子の208段には「寺は、壷坂、笠置、法輪・・・」と、七つの寺があげられている。その中で笠置寺と志賀の三井寺の本尊は弥勒菩薩であり、秦氏ゆかりの嵐山の法輪寺には平安時代から伝わる弥勒菩薩があった。弥勒信仰もまた、平安時代の日本にしっかり根付いていたことが分かる。

 弥勒菩薩、稲荷神、八幡様と、誰もが日本古来の信仰だと思っていた神仏が、実は古代の帰化人、秦氏に起源があった。それらは平安時代には朝廷や庶民の間にすっかり定着していたことが、清少納言の枕草子によってうかがえた。

参考文献
1)清少納言(池田亀鑑校訂):枕草子、岩波文庫、2007
2)大和岩雄:日本にあった朝鮮王国 謎の「秦王国」と古代信仰、白水社、2009

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