第137弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人のふるさと 伽耶の兵士2009年10月31日 07時09分00秒

のむけはえぐすり:韓国中央博物館に展示されていた伽耶の兵士の姿
第137弾  のむけはえぐすり
古代の帰化人のふるさと 伽耶の兵士

 中国の歴史書「三国志魏書、韓伝」によると、3世紀中頃の朝鮮半島南部は、西から馬韓、弁韓、辰韓の三国に分かれていた。
 
 東シナ海側の馬韓には一国の戸数が数千戸から一万戸を超える国が50余国あり、総計10万余戸あったという。弁韓と辰韓の一国の規模は小さく、600戸から4~5000戸の国が24国あった。その中で弁韓の高霊地方にあった半路は後に大伽耶となり、金海地方にあった狗邪は金官伽耶となった。

伽耶を代表する大伽耶と金官伽耶の始祖は、大伽耶の建国神話によれば、天神と伽耶山の山神から生まれた二人の子供ということになっている。ひとりは大伽耶の祖で半路を建国した伊珍阿鼓王で、もうひとりは金官伽耶の祖、首露王である。紀元42年のことだという。金官伽耶には金官伽耶で、六つの金の卵から生まれた王様という独自の建国神話がある。

韓国の古代史は、12世紀に編纂された三国史記や、13世紀の三国遺事に記されている。

 だが、三国史記に伽耶の歴史が系統だって登場することはない。百済本紀や新羅本紀や高句麗本紀の記述の中で、伽耶について書かれたところをつなぎ合わせている。その中で、382年には、伽耶国王、己本旱岐が382年に百済と友好関係を結んだとある。次いで、400年に高句麗の広開土王が新羅を援助して、百済、伽耶、倭の連合軍を攻撃してきたことが記されている。この高句麗の南伽耶への侵攻が結果的に金官伽耶や阿羅伽耶の衰退を招き、大伽耶が伽耶の盟主となるきっかけとなったわけだ。

 不思議に思ったのは、どうして大伽耶より南にある金官伽耶や阿羅伽耶が先に攻撃されたのか、ということだ。それには、3世紀の朝鮮半島における国家形成と国際情勢からみていく必要がある。

 先ほどの中国の三国志・魏書に書かれていた3世紀の朝鮮半島南部の国々の実態は、農村共同体の社会だった。これに対して、朝鮮半島北部は中国の晋に支配され、楽浪郡や帯方郡が置かれ、国家という概念ができていた。そこに高句麗が満州から南下し、313年には楽浪郡、翌年には帯方郡を占領し、朝鮮半島北部を支配する国家を築いた。

 316年に中国では晋が今の南京に遷都すると、黄河地方では周辺民族を巻き込んで五胡十六国の興亡が繰り返された。滅亡した国からの亡命者は高句麗や馬韓や辰韓の国々に迎えられ、高句麗では軍備が拡張され、国の体制が充実していった。朝鮮半島南部の馬韓では百済が、辰韓では新羅がそれぞれ統一国家の形成に向かいようやく歩み出すことになった。それくらい、南部での国家形成は北部より遅れていた。

 だが、高句麗が一時、衰退したことがある。340年頃、高句麗の故国原王は中国の燕によって都を奪われ、故国原王は逃げたが、多くの王族が捕虜になった。故国原王は燕に恭順を誓い戻ることができたが、次の百済の近肖古王との戦いでは平壌城まで攻められ戦死してしまった。

 故国原王の死によって一時衰退した高句麗だが、391年に王位に就いた広開土王によって高句麗は再び国力を回復し、領土を広げ、最盛期を迎えた。

その間、新羅は倭の侵略に悩まされ続けていた。都の金城が囲まれることもたびたびあったが、399年、ついに新羅の金城が倭に占領され、新羅の奈勿王は倭の臣下にされてしまった。新羅は高句麗に助けを求めた。高句麗は新羅に援軍を派遣し、倭軍を追い払った。その後、高句麗軍は南伽耶に遠征するのだが、その辺りのことを伝えている資料に広開土王陵碑の碑文がある。

広開土王陵碑は、現在は中国国内の吉林省の広開土王陵の近くにある高さ6.3m、幅1.4~1.9mの四角柱の石碑である。そこに1802字で主に広開土王の功績が記されている。1880年に発見された時に拓本が採られた。1884年にその解読が日本の参謀本部で行われたので、倭と任那関係の記事が日本の皇国史観に合うように改ざんされたと、ささやかれている。だが、最近の調査でも、碑文の傷み方が激しく、実際に改ざんされたかどうか明確な答えは未だないようだ。

問題の広開土王碑文の第2段に、百済が倭と内通したので、高句麗が百済を攻めようとしたら、新羅の都が倭に占領されたという知らせが入ったと記されている。400年に広開土王は5万の大軍を率いて新羅に救援に向かった。新羅の都を解放して、任那、加羅に遠征したところ、今度は逆に安羅伽耶によって新羅の都が占領されたので、引き返した。404年には帯方郡まで、倭が安羅伽耶の兵を伴って攻めてきたが、広開土王が撃退したという記事もある。

これをみると、この頃の倭と金官伽耶や安羅伽耶は同盟関係にあったことが分かる。高句麗にとっては、倭の前進基地のようになっている金官伽耶と安羅伽耶は、真っ先に取り除かなければならない国だった。それが、400年に広開土王が大伽耶をさておき、伽耶の南部に遠征した背景だ。

 写真は韓国中央博物館に展示されていた伽耶の兵士の姿である。鎧と兜は牛革や短冊状の鉄板を並べた構造のようだ。手には柄の先端が輪になった環頭太刀を持っている。この兵士の兜の上には赤い飾りがついているが、例えば、大伽耶の兜にはひさしがあり、阿羅伽耶の兜には耳当てがあって、頭頂が尖っているというように、伽耶の兜は国によって特徴があったことが知られている。
 400年前後、高句麗と新羅の連合軍と戦っていたのは、さまざまな兜で色分けされた伽耶の兵士と倭の同盟軍だった。

参考文献
1)井上秀雄:古代朝鮮、講談社学術文庫、2009
2)森公章:東アジアの動乱と倭国、吉川弘文館、2008
3)金富軾著、金思燁訳:三国史記(上)、六興出版、1980

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