のむけはえぐすり;大伽耶のびっくり その4 ― 2009年11月03日 04時24分29秒
のむけはえぐすり;大伽耶のびっくり 3 ― 2009年11月03日 04時26分06秒
のむけはえぐすり;大伽耶のびっくり その2 ― 2009年11月03日 04時27分35秒
のむけはえぐすり;大伽耶のびっくり その1 ― 2009年11月03日 04時29分07秒
第138弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人のふるさと 南原山城 ― 2009年11月11日 21時50分47秒
第138弾 のむけはえぐすり
古代の帰化人のふるさと 南原山城
大伽耶博物館の展示をみると、5世紀の大伽耶の勢力範囲は、西が全羅北道の南原の先まで達し、百済と国境を接している。南は南原(ナモン)市内を流れる蓼(リョウ)川を下り、川の名前が蟾津江(ソムジンガン)となった河口の両岸、河東郡と順天市までが勢力範囲となっている。東は洛東江が新羅との境で、北は高句麗が来ているところまで。
今回、光州行きのオリンピック高速道路を、南原までタクシーで向かった。途中いくつかの盆地を通り、1時間30分ほどで到着した。南原に入る手前の慶尚南道と全羅北道との境は、南に広大な智異山の山麓が広がり、北は小白山脈の支脈が迫っていた。南原から先は、全州と羅州の平坦で広い緑豊かな農地が広がっている。
南原の北の郊外に南原山城(ナモンサンソン)がある。咬龍山城(キョリョンサンソン)とも呼ばれ、海抜518mの咬龍山を一巻きするように石で城壁が築かれ、東の谷には写真のようなアーチ型をした門がある。この山城が造られた正確な年代は分からないが、築城形式から百済時代だと推定されている。
南原が百済の支配下にあった証拠だが、南原の支配権が大伽耶から百済に移る時に、倭と呼ばれた日本が関与した話はあまり知られてはいない。
400年、倭に占領された新羅の都を解放するために、高句麗の広開土王が援軍を派遣した。新羅から倭を追い出し、倭が逃げ込んだ金官伽耶を攻めたが、安羅伽耶が新羅の都を占領したという知らせを聞いて撤退した。その後、新羅には高句麗軍が常駐し、新羅は高句麗の強圧的な態度に悩まされ続けた。だが、400年代後半に、新羅は高句麗を追い出すことに成功した。それからの新羅は百済と協力して、高句麗にあたるようになった。
一方、百済は高句麗との戦いに明け暮れていた。蓋鹵王(ケロワン)31年(475年)、ソウルの東(今の河南市)にあった百済の都、漢城が高句麗の長寿王の策略によってあっけなく落城し、蓋鹵王は殺されてしまう。百済は一旦、滅亡する。
翌年に、南に逃げた蓋鹵王の子の文周が熊津(ウンジン、今の公州)で百済を再興する。それまで王族の余氏と二つの中央貴族によって独占されていた百済の政治は、新たに加わった地方の王が官僚化することによって、中央集権化が進んだ。対外的には、韓族系の小国家が分立していた馬韓南部を支配下に治め、新羅との関係を改善した。
この「馬韓南部を支配下に治め」という辺りから、百済と倭の関わりが日本書紀に記されている。日本書紀の編纂が百済の歴史書である「百済本記」に基づいているので、かなり百済に肩入れした記述になっていることは差し引かなければならない。
継体天皇6年(512)のことだという。
百済は倭に使節を派遣し、任那の上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あるしたり)、婆陀(さた)、牟婁(むろ)の4県を百済に割譲されたことを認めるように要請してきた。日本では時の大連(おおむらじ)、大伴金村が百済との友好関係を重視し、それを了解した。この4県の場所は研究者によってまちまちだが、いずれにしろ南原を除く全羅南道と全羅北道のほぼ全域と思ってよさそうだ。
その翌年に百済は、今の南原にあたる己汶(こもん)と、蟾津江河口の河東にあたる帯沙(たいさ)という2郡を、伴跛(はへ)国に占領されたので、返して貰いたいと言ってきた。倭と伴跛国と新羅と百済の4カ国による国際会議が日本で開かれ、倭は2郡の帰属を裁定するという立場だったが、ここでも倭は百済に有利な決定を下した。これに怒った伴跛国は、倭の使者の物部連を蟾津江の河口で襲い、倭と伴跛国は戦争になった。この伴跛国というのが、三国史魏書で半路国と書かれていた大伽耶のことだ。
何故、倭は長年友好関係にあった大伽耶を切り捨ててまで、百済に肩入れするようになったかのだろうか。
裁定に先立ち、伴跛国は倭に珍宝を贈ったとされる。だが、百済は五経博士の段楊爾を派遣している。この五経博士は数年の交替制なのだが、日本に斬新な知識や文化をもたらした。中国の影響を直接受けた百済の文化に、目がくらんだということのようだ。
新羅は532年に金官伽耶を併合した。大伽耶は先に蟾津江の出口を失い、ここでまた洛東江の出口を失った。大伽耶はこの後、さまざまな生き残り策を講じた果てに、やがて新羅に吸収されていく。
日本では、欽明天皇元年(540)に新羅遠征の話が持ち上がった。
その際、大伴金村が推進した百済への任那4県2郡の割譲が糾弾された。大伴金村は百済から賄賂を貰ったとまで噂され、病気を口実に朝廷に出仕しなくなった。代わって政権の中枢に上ったのは、蘇我稲目と物部尾輿である。
今回、南原に行って分かったことは、南原山城が築城されたのは任那の4県2郡が大伽耶から百済に割譲された後だった。そのことで倭では、一つの政権がぶっ飛んだ。それくらい南原というところは、蟾津江の上流を支配し、肥沃な全羅道の平野と大伽耶を結ぶ要害の地であった。
参考文献
1)井上秀雄:古代朝鮮、講談社学術文庫、2009
2)森公章:東アジアの動乱と倭国、吉川弘文館、2008
3)平林章仁:蘇我氏の全貌、青春出版社、2009
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