googleが日本語入力ソフトを出した・・・これは使える ― 2009年12月05日 03時19分33秒
まだベータ版だがこれが非常にスグレもの
僕は自分のPCはジャストシステムのATOKをいれてあるのですが新しい会社のものは仕方なくMS-IMEを使っている・・・これが”お馬鹿さん”でいつもイライラしている
というところに登場したgoogleのソフト・・・当然無料で非常に使い勝手はいい
ATOKよりもいいかも知れない
是非一度お試しを
参考までに紹介記事は
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20091203_google_japanese_input/
第139弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人のふるさと 大伽耶の鉄 ― 2009年12月06日 21時32分04秒
第139弾 のむけはえぐすり
古代の帰化人のふるさと 大伽耶の鉄
韓国の高霊にある大伽耶博物館の背後の山に、直径が10mほどの円墳が並んでいる。5世紀から6世紀に最盛期を迎えた大伽耶王家の墓、池山洞古墳群である。伽耶地方有数の規模を誇る。
大伽耶博物館刊行の本を見ると、大伽耶が栄えた理由の一つは、水が豊富で旱魃がなく、農業に適した地域だったからだという。農産物でいえば、18世紀初めの頃、伽耶川の米の生産を示す地理書の記述に、「種を一斗を蒔くと、田畑からの収穫が120~130斗で、少なくとも80斗以上になった」とある。また、畑には綿もよく栽培できたことから、「衣食の村」と呼ばれていたという。
大伽耶が栄えたもう一つの理由は、4世紀頃に支配下に治めた隣の陜川(ハプチョン)郡の治炉が鉄の一大産地であったことだ。治炉という地名自体が鍛冶屋とか、火鉢といった意味で、治炉には古代の製鉄炉や鉄を鍛えた跡が何カ所も残されている。15世紀頃の地理書によれば、現代に換算すると年に5.7トンの鉄が貢納されたという。鉄を支配した大伽耶は農業を発展させ、軍備を強化した。

写真は、大伽耶博物館の古代の製鉄炉の模型である。古墳群に向かう裏山の途中にある。奥の円筒状のものが製鉄炉で、手前に排滓口が開いていて、左に送風口がある。そこからフイゴを用いて風を送るのだが、この「たたら製鉄」だと、温度は1000度ぐらいがせいぜいなので、得られた海綿鉄は叩いて鉱滓を絞り出す必要があった。
その製鉄の展示をあとに、古墳が続く山の稜線をたどっていくと、掲示板が所々に設置され、日本語でも書かれている。その一つに、大伽耶年表があった。欄外に、この記事は三国史記、三国遺事、新増東国興地勝覧、中国の南斉書、日本の日本書紀などを参考にしたと書かれている。
年表は、42年の半路国建国にまつわる伝承から始まっている。次は、382年に、加羅国王己本旱岐が百済と友好関係を結んだとある。400年には高句麗の広開土王が新羅を助け、百済、伽耶、倭の連合軍と戦ったという記事だ。
478年に大伽耶の荷知王が中国の南斉に使いを派遣し、「輔国将軍・本国王」の爵位を受けたとある。倭では雄略天皇(21)以前の五王が安東将軍やら鎮東将軍を頂いて喜んでいた頃だが、南斉の爵位を研究した人がいうには、高句麗よりはるかに下で、倭と百済の少し下という位のようだ。それでも、伽耶の中の一国としては破格の扱いだった。
481年に、高句麗が新羅の城を攻撃してきたので、百済と共に新羅の救援に向かった。この頃は475年に百済が一旦滅び、再興したばかりなので、新しく国境を接することになった高句麗に対抗するために、新羅を頼るようになっていた。尻尾が5尺もある白いキジを新羅に贈ったという。
513年の記事が、日本書紀でいう任那4県2郡の割譲だ。はじめに全羅南道と全羅北道の4県、次いで大伽耶が支配していた南原と河東の2郡が、百済の支配下になったというのだ。このあたりのことを日本書紀では、倭が百済から割譲の裁定を頼まれたなどと、持って回った言い方をしているが、大伽耶の年表ではたった2行。513年6月百済の領土である己汶、帯沙を占領。11月、己汶、帯沙が百済に占領された、と簡潔だ。譲ったのか、とられたのか? 実態は多分後者だろうと直感する。
大伽耶は百済の侵攻に対抗するために、大伽耶連盟を率いて新羅に接近する。盟主の大伽耶王は新羅と婚姻関係を結び、522年の新羅の第1次金官伽耶侵攻の際には、新羅の法興王と会同したこともある。ところが、新羅が大伽耶の王妃の服装を新羅式に変えさせたことで、大伽耶王は激怒し、大伽耶と新羅との関係が悪化する。結局、大伽耶は城を五つとられて、元の木阿弥。
この後、大伽耶の年表では、「AD532年、南伽耶(金官伽耶)が新羅により滅亡される」と、素っ気ない。
このあたりの日本書紀の記事はややっこしい。
522年に新羅による金官伽耶への侵攻があった時に、継体天皇の倭では近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)と6万の兵を「任那」に派遣しようとする。新羅は先手を打ち、北九州の豪族、磐井に反乱を起こさせる。大伴金村は物部麁鹿火(あらかい)に命じて磐井を討ち、近江毛野臣は阿羅伽耶へと向かう。近江毛野臣がもたつく間に、実質、百済には阿羅伽耶への侵攻を許し、新羅には次の金官伽耶の攻略の足がかりを築かれてしまう。近江毛野臣は、日本に召還され失敗を叱責される前に、対馬で死んだという。
ところが、このようなことは、三国史記の新羅本紀や百済本紀のどこにも書かれてはいない。日本書紀が勇ましく語るほど、伽耶における倭の軍事的政治的プレゼンスはなかったのだろう。最近では、朝鮮半島に関する日本書紀の記述は信憑性に欠けるというのが、常識になっているようだ。
今回、大伽耶があった高霊を訪ねてみて、高霊は豊かな農産物と鉄の産地であることが分かったが、高霊は慶州や扶余とは比較にならないぐらい狭い土地だった。池山洞古墳群から山に囲まれた高霊を見渡すと、大伽耶はいずれ吸収される運命にあったと感じた。ただその時に、日本書紀に言うほどのことではないが、当時日本からの倭人が伽耶にいたことで、逆に伽耶の人々が日本に渡来する下地はあったという心証は得た。
参考文献
1)大伽耶博物館:大伽耶の歴史と文化、2004
2)井上秀雄:古代朝鮮、講談社学術文庫、2009
3)金富軾著、金思燁訳:完訳 三国史記(上)、六興出版、1980
4)金富軾著、井上秀雄注釈:三国史記(2)、東洋文庫、平凡社、2005
のむけはえぐすり本舗;大伽耶博物館のびっくり ― 2009年12月07日 21時11分26秒
大伽耶博物館のびっくり
1)大伽耶博物館の案内

大伽耶の王妃の服装を新羅式に変えたことで、大伽耶王は激怒したと日本書紀に書かれている。博物館の中には、現代のチマに似たスカートを着けた展示がある。女性のWestが絞られているか、Westが隠されているか、その差は大きい。大伽耶王の気持ちが分かる!?
2)大伽耶(デガヤ)の年表(ヨンピョ)

左がハングル、右が日本語である。AD42年の建国から、AD562年の滅亡までの歴史が記されている。
3)大伽耶最盛期の領土

赤いところが高霊で、東にすぐ新羅が迫っている。西の端は南原、南は海で蟾津江を挟んだ順天と河東、東の国境は北から星山伽耶、ピフゥア伽耶(?)、阿羅伽耶である。赤印のすぐ左下のオレンジが、峡川(ハプチョン)の多羅伽耶。
4)古代製鉄炉での製鉄

2005年6月3日にKBSで放送された、大伽耶の古代製鉄炉で12時間かけて製造された鉄。その時、こんな風に排鉄口から出てきた。
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第140弾 のむけはえぐすり:古代の帰化人のふるさと 大伽耶の終焉 ― 2009年12月23日 20時59分53秒
第140弾 のむけはえぐすり
古代の帰化人のふるさと 大伽耶の終焉
写真は陜川博物館の裏山にある多羅伽耶の玉田古墳群である。周りの景色から分かるように、多羅伽耶は山間の小さな国であった。
このような小国の集まりであった伽耶は、532年に金官伽耶が降伏した前後から、562年に大伽耶が滅亡するまで、約30年の間に立て続けに消滅した。
金官伽耶が新羅に降ったのは、金官伽耶第10代の王、仇衡(きゅうこう)王の532年である。金官伽耶には新羅による524年の第一次侵攻に続いて、529年の第二次侵攻があり、金官伽耶の主要な村が占領され、命運はほぼ尽きていた。
この時、百済は今の北朝鮮のあたりで高句麗に大敗を喫し、538年には熊津から泗泌(しび・泗沘とも)に遷都しなければならかったほどだった。とても、金官伽耶を救援する余裕はなかったのだ。金官伽耶と関係が深かった倭は近江毛野臣を派遣してきたが、近江毛野臣は安羅伽耶にいて、なすすべもなかった。
兵力もなく傲慢な近江毛野臣の失態を口実に、百済は531年に安羅伽耶に進駐してきた。だが、百済兵が守備していた安羅伽耶の久礼(くれ)の城が、新羅によって陥落してしまう。ここにいたって、金官伽耶は新羅に降伏する。その際、三国史記の新羅本紀には、仇衡王が息子3人とともに、国庫の宝物を携えて降伏してきたと記されている。
新羅は降伏してきた金官伽耶の王族を厚遇した。
仇衡王の弟には旧領の管理を任せ、統治の継続を認めた。新羅に移り住んだ仇衡王とその息子たちには、新羅の官位の最高位である角干の位を与えた。三男の金武力は新羅の王族と婚姻関係を結び、新羅の将軍として活躍した。金武力の子が金舒玄(ソヒョン)で、陜川を治める将軍になった。金舒玄の子が金庾信である。
金官伽耶が降伏した後、541年に百済の聖明王は都の泗泌に伽耶諸国の王たちを招集し、第一次泗泌会議を開いた。その場で聖明王は、先に消滅した伽耶の三つの国について言及している。金官伽耶と安羅伽耶の間に位置した㖨己呑(とくことん)はたび重なる新羅の侵攻に遭い、救援することができずに滅んでしまったという。金官伽耶は領土が狭いので攻められると、ひとたまりもなく占領されてしまったという。卓淳(とくじゅん)は王族が新羅の傘下になることを求めたために、臣下と意見が対立して、滅びるべくして滅びたといっている。
だから新羅の力はたいしたことはないというのだ。聖明王は伽耶諸国の結束を説き、必ず百済が援軍を派遣することを約束して、会議が終わった。伽耶諸国は贈り物をいただき、満足して国に帰ったという。
ところが、間もなく安羅伽耶が新羅に内通していることが発覚した。それを画策したのが、安羅日本府の河内直(あたい)だったというから、倭にとっては二重の驚きだった。河内直という名前からは日本人のようだが、実は倭の女性を母に持つ百済系の伽耶人であって、百済にも倭国にも密接な関係を持つ存在だった。
戦前教育の中で日本府は、恒常的に伽耶諸国全体を支配するような倭国の出先機関として語られ、戦前日本が朝鮮半島を植民地化する宣伝に利用された経緯がある。日本書紀を素直に読む限り、私の印象では、現代のロビィストのような姿が浮かんでくる。
日本書紀を読み解いた森公章の知見では、日本府とは6世紀頃の安羅伽耶に存在した在安羅諸倭臣のことで、許勢臣(こせのおみ)や的(いくは)臣といった倭の中央豪族がトップに座り、吉備臣のような地方豪族が中間管理職となって、先ほどの河内臣などのような伽耶系の人々が実務についていた組織ということのようだ。倭国の指示を受けるといった直接的なつながりはなかったが、安羅伽耶の政権に対する一定の影響力はあったというのだ。
安羅伽耶の親新羅派が出席を渋る中、第二回泗泌会議が544年に招集された。会議は親新羅の機運を一掃し、百済の軍事的進出を再確認して終わった。
ところがその後、百済にとっては軍事的な問題が続発する。544年に王位継承をめぐる内紛で、2000人もの死者を出した高句麗国内の混乱がようやく収まり、高句麗が再び百済への侵攻を開始した。その間隙を突いて、新羅は高句麗と百済の間に割って入るような形で領土を広げた。そして、伽耶にとって致命的だったのは、百済の聖明王が敗死したことである。
聖明王の在位は523年から554年で、聖明王は倭国に仏教を伝えたことで有名な王である。日本書紀には、聖明王の最期が詳しく記されている。
554年、聖明王の王子の余昌は功を焦り、新羅領内に突出して孤立してしまった。王子を救うために聖明王自らが、今の太田付近の沃川(ヨクチョン)まで出陣した。これが新羅の知るところとなり、聖明王は包囲され、殺害された。百済は3万の兵を失い、大打撃を受けた。この時に百済と一緒に、安羅伽耶と大伽耶は壊滅的な損害を被った。一方、新羅を勝利に導いたのが、新羅の将軍となっていた元金官伽耶の金武力であった。
王子の余昌は、強弓で速射が得意な筑紫の国造の活躍で、脱出することができたという。このことから、筑紫の兵が朝鮮半島への援軍にかり出されていたことが分かる。ということは、倭が近江毛野臣と共に援軍を派遣しようとした時に起きた磐井の乱は、日本書紀のいうような新羅との内通によって起きたのではなく、援軍派遣のために課される賦役に反発して起きたことがうかがえる。
聖明王の死後、伽耶諸国は存亡の危機に立たされた。
561年には安羅伽耶が新羅の統治下に入った。561年12月には、新羅の眞興王が臣下たちを昌寧に集め会盟する。泗泌会議を開いた聖明王と同じことをしたわけだ。
562年9月、大伽耶の道設智王は新羅の眞興王の攻撃を支えきれずに、大伽耶は滅亡する。この時、百済は援軍を派遣したが、一千人の死者を出して撤退した。倭も百済経由で援軍を差し向けたと、日本書紀には書かれている。
参考文献
1)森公章:東アジアの動乱と倭国、吉川弘文館、2008
2)井上秀雄:古代朝鮮、講談社学術文庫、2009
3)歴史研究会編:日本史史料(1)古代、岩波書店、2005
第141弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人のふるさと 大伽耶の古墳 ― 2009年12月27日 04時35分32秒
第141弾 のむけはえぐすり
古代の帰化人のふるさと 大伽耶の古墳
大伽耶博物館の裏山が、主山である。わずかな蝉の声を聞きながら森の中を登っていくと、夏の日差しが照りつける小径に出る。
芝に覆われた古墳が山の稜線に沿って並び、頂上へと向かう小径が見え隠れする。主山の右手にある丘は、かつて王宮があった場所だ。
写真のように、小径のすぐ側に直径15mほどの古墳がある。標識には、史跡第79号、池山洞古墳群 第32号墳とある。池山洞古墳群には大型古墳が5基と大小の古墳が200基余りあるというから、周囲を見渡してみると、小さい方なのだろう。
それでも、この第32号墳からは金銅の冠が出土している。博物館に展示されているそのレプリカを見ると、金色に輝く帯状の冠の輪の上に金銅板が立てられ、その左右に宝珠型の枝がついている。金銅板の上には大きな花の蕾の飾りがあり、草花模様を装飾している大伽耶の代表的な冠である。
このような小さな古墳からでも立派な金銅製の冠が出土するからには、この一帯が大伽耶王家の墓だったことが分かる。古墳群が造られた年代は5世紀から6世紀と推定され、大伽耶が最も栄えた時から滅びる直前までの王が眠っていることになる。
この古墳は韓国のどこにでも見られる円墳である。一見、日本の円墳と同じように見えるが、この円墳の頂上は丸く、土饅頭のような格好をしている。その点、日本の円墳の頂上は基本的に平坦になっているので、そこが違うのだという。
私は韓国では円墳以外は見たことがないが、日本では円墳の他に、前方後円墳、前方後方墳、方墳、八角墳など、さまざまな形の古墳がある。とりわけ、日本では前方後円墳が重要視されている。多くの天皇陵が前方後円墳である上に、大きい方からベスト45位くらいまでが前方後円墳である。古墳前期から後期までの全ての時期を通して造られ、岩手から鹿児島までのほぼ全国に分布している。日本の円墳の頂上が平坦なのも、前方後円墳が出現したあと、後方墳が省略された形として造られたからだといわれている。
ところが、従来日本列島のみに存在すると考えられていた前方後円墳が、1980年以降、韓国南西部に13基発見されている。ただ、地域的には、全羅南道の光州、羅州、威平(ハンピョン)から木甫(モッポ)辺りの栄山川流域に限定され、時代的にも5世紀後半から6世紀前半の百済の熊津時代に集中している。被葬者には、日本との関係をアピールするために作ったという在地首長説や、副葬品などの比較から北九州や有明海沿岸出身の倭人説がある。倭人説の中では北九州から亡命してきた倭人説、百済王家に臣従した倭人説などがある。
これらの諸説はどれもが、ありうることのように思える。というのは、在地首長説にしても、この旧馬韓地域は濊族の百済が支配する以前には韓族系がいて、もともと北九州とは密接な関係があったことが分かっているからだ。倭人説にしても、日本書紀には、「4県2郡割譲」の際にこの地域に穂積(ほずみ)臣押山という倭系の百済官僚がいたと記されているし、雄略天皇の479年に百済の文斤王が亡くなった時に、日本にいた王子を筑紫の兵500人に護らせて送り届け、その王子は後に東城王となって即位したという記事や、筑紫の安致臣や馬飼臣が高句麗を攻めたという記事があるからだ。歴史の話は、一つのことでも見る人によって、さまざまな解釈が成り立つからおもしろい。
話はもう一度、第32号墳に戻る。
写真の左下に、三つほどゴツゴツした石が見える。この際、私もさまざまな説を考えてみた。ひとつ目は、日本ではほとんどの古墳の表面を覆っている葺石(ふきいし)が、ないはずの韓国にもあったという葺石説だ。だが、日本でも葺石というとだいたいが丸石だし、大伽耶博物館の古墳の造成過程を再現したジオラマにも最終段階に葺石がないので、葺石説はあえなく不採用。
二つ目は、墓の中央にある主石室を囲んでいた石がたまたま露出したという主石室露出説だ。だが、日本の場合は墳丘を造り、頂上部から土壙(どこう)を掘って墳丘の内部に埋葬する竪穴式が普通だが、博物館内のジオラマをみると、平地を掘り下げて石室を造り、その上に盛り土をして墳丘を造っている。墳丘の最深部にある主石室が露出することは考えられないので、この説も破棄。
三つ目は、古墳の周囲に配置された殉葬者の石槨の石が露出したという殉葬石槨説である。大伽耶では殉葬が行われていた。殉葬された人々は、王の死後もお仕えするように、生きたまま埋葬された。例えば、近くにある直径27m、高さ6mの第44号墳では、主石室の周りに副葬石室2基の大型石室があり、周りに小形の石槨32基が配置され、周囲を楕円形の護石が取り囲んでいたことが、1977年の慶北大学による発掘調査で分かっている。副葬石室にはそれぞれ一人以上、小形の石槨には一人ずつ、合わせて36人以上が殉葬されていた。したがって、古墳の構造から楕円形の護石の内側にある石槨の石が突然見えるはずがなく、この説も却下。
四つ目は、これは石ではなく埴輪のかけらだという埴輪断片説だ。日本の人や馬の形の埴輪は、垂仁天皇の32年、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった時に、殉葬を廃止するために、野見宿禰(すくね)が出雲から土部(はじべ)を呼んで作ったことが始まりだといわれている。実際は、646年の孝徳天皇の葬儀の際に殉葬を禁じる薄葬令が出されているので、かなり遅い時期まで殉葬の習慣が残ってはいたようだ。ところが、大伽耶博物館の中に埴輪はなかった。殉葬が続いていた大伽耶には人や馬の埴輪は必要なかったとも考えられるが、どうみてもこれは石だというので、この説は無視。
となると、五つ目は、今歩いて来た小径はこれと同じような石で舗装されているので、最近工事した人が余った石を無造作に置いていったという工人遺棄説だ。私はこれが最も有力な説だと考えている。
参考文献
1)白石太一郎:古墳の知識Ⅰ 墳丘と内部構造、東京美術、1985
2)村井嵓雄ほか:古墳の知識Ⅱ 出土品、東京美術、1985
3)朴天秀:伽耶と倭 韓半島と日本列島の考古学、講談社選書メチエ、2007
4)大伽耶博物館:大伽耶の歴史と文化、2004
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