第139弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人のふるさと 大伽耶の鉄2009年12月06日 21時32分04秒

第139弾  のむけはえぐすり

古代の帰化人のふるさと 大伽耶の鉄

 

 韓国の高霊にある大伽耶博物館の背後の山に、直径が10mほどの円墳が並んでいる。5世紀から6世紀に最盛期を迎えた大伽耶王家の墓、池山洞古墳群である。伽耶地方有数の規模を誇る。

 

 大伽耶博物館刊行の本を見ると、大伽耶が栄えた理由の一つは、水が豊富で旱魃がなく、農業に適した地域だったからだという。農産物でいえば、18世紀初めの頃、伽耶川の米の生産を示す地理書の記述に、「種を一斗を蒔くと、田畑からの収穫が120130斗で、少なくとも80斗以上になった」とある。また、畑には綿もよく栽培できたことから、「衣食の村」と呼ばれていたという。

 

 大伽耶が栄えたもう一つの理由は、4世紀頃に支配下に治めた隣の陜川(ハプチョン)郡の治炉が鉄の一大産地であったことだ。治炉という地名自体が鍛冶屋とか、火鉢といった意味で、治炉には古代の製鉄炉や鉄を鍛えた跡が何カ所も残されている。15世紀頃の地理書によれば、現代に換算すると年に5.7トンの鉄が貢納されたという。鉄を支配した大伽耶は農業を発展させ、軍備を強化した。



 

 写真は、大伽耶博物館の古代の製鉄炉の模型である。古墳群に向かう裏山の途中にある。奥の円筒状のものが製鉄炉で、手前に排滓口が開いていて、左に送風口がある。そこからフイゴを用いて風を送るのだが、この「たたら製鉄」だと、温度は1000度ぐらいがせいぜいなので、得られた海綿鉄は叩いて鉱滓を絞り出す必要があった。

 

 その製鉄の展示をあとに、古墳が続く山の稜線をたどっていくと、掲示板が所々に設置され、日本語でも書かれている。その一つに、大伽耶年表があった。欄外に、この記事は三国史記、三国遺事、新増東国興地勝覧、中国の南斉書、日本の日本書紀などを参考にしたと書かれている。

 

 年表は、42年の半路国建国にまつわる伝承から始まっている。次は、382年に、加羅国王己本旱岐が百済と友好関係を結んだとある。400年には高句麗の広開土王が新羅を助け、百済、伽耶、倭の連合軍と戦ったという記事だ。

 

 478年に大伽耶の荷知王が中国の南斉に使いを派遣し、「輔国将軍・本国王」の爵位を受けたとある。倭では雄略天皇(21)以前の五王が安東将軍やら鎮東将軍を頂いて喜んでいた頃だが、南斉の爵位を研究した人がいうには、高句麗よりはるかに下で、倭と百済の少し下という位のようだ。それでも、伽耶の中の一国としては破格の扱いだった。

 

481年に、高句麗が新羅の城を攻撃してきたので、百済と共に新羅の救援に向かった。この頃は475年に百済が一旦滅び、再興したばかりなので、新しく国境を接することになった高句麗に対抗するために、新羅を頼るようになっていた。尻尾が5尺もある白いキジを新羅に贈ったという。

 

513年の記事が、日本書紀でいう任那42郡の割譲だ。はじめに全羅南道と全羅北道の4県、次いで大伽耶が支配していた南原と河東の2郡が、百済の支配下になったというのだ。このあたりのことを日本書紀では、倭が百済から割譲の裁定を頼まれたなどと、持って回った言い方をしているが、大伽耶の年表ではたった2行。5136月百済の領土である己汶、帯沙を占領。11月、己汶、帯沙が百済に占領された、と簡潔だ。譲ったのか、とられたのか? 実態は多分後者だろうと直感する。

 

大伽耶は百済の侵攻に対抗するために、大伽耶連盟を率いて新羅に接近する。盟主の大伽耶王は新羅と婚姻関係を結び、522年の新羅の第1次金官伽耶侵攻の際には、新羅の法興王と会同したこともある。ところが、新羅が大伽耶の王妃の服装を新羅式に変えさせたことで、大伽耶王は激怒し、大伽耶と新羅との関係が悪化する。結局、大伽耶は城を五つとられて、元の木阿弥。

 

この後、大伽耶の年表では、「AD532年、南伽耶(金官伽耶)が新羅により滅亡される」と、素っ気ない。

 

このあたりの日本書紀の記事はややっこしい。

522年に新羅による金官伽耶への侵攻があった時に、継体天皇の倭では近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)と6万の兵を「任那」に派遣しようとする。新羅は先手を打ち、北九州の豪族、磐井に反乱を起こさせる。大伴金村は物部麁鹿火(あらかい)に命じて磐井を討ち、近江毛野臣は阿羅伽耶へと向かう。近江毛野臣がもたつく間に、実質、百済には阿羅伽耶への侵攻を許し、新羅には次の金官伽耶の攻略の足がかりを築かれてしまう。近江毛野臣は、日本に召還され失敗を叱責される前に、対馬で死んだという。

 

ところが、このようなことは、三国史記の新羅本紀や百済本紀のどこにも書かれてはいない。日本書紀が勇ましく語るほど、伽耶における倭の軍事的政治的プレゼンスはなかったのだろう。最近では、朝鮮半島に関する日本書紀の記述は信憑性に欠けるというのが、常識になっているようだ。

 

今回、大伽耶があった高霊を訪ねてみて、高霊は豊かな農産物と鉄の産地であることが分かったが、高霊は慶州や扶余とは比較にならないぐらい狭い土地だった。池山洞古墳群から山に囲まれた高霊を見渡すと、大伽耶はいずれ吸収される運命にあったと感じた。ただその時に、日本書紀に言うほどのことではないが、当時日本からの倭人が伽耶にいたことで、逆に伽耶の人々が日本に渡来する下地はあったという心証は得た。

 

参考文献

1)大伽耶博物館:大伽耶の歴史と文化、2004

2)井上秀雄:古代朝鮮、講談社学術文庫、2009

3)金富軾著、金思燁訳:完訳 三国史記(上)、六興出版、1980

4)金富軾著、井上秀雄注釈:三国史記(2)、東洋文庫、平凡社、2005