새해 복 많이 받으십시오2010年01月01日 05時49分46秒





새해 복 많이 받으십시오

올해도 잘 부탁합니다


これは便利;広告検索”タウンマーケット”2010年01月02日 04時57分55秒


明けましておめでとうございます

今年もテニス、スキーにゴルフもちょっと・・・という編集長です

ところで年末年始も雪が少なかったので結果的にテニス三昧になってしまいました(^_^)

開いてるお店を調べようとググってみたら見つけたのがこのサイト

”タウンマーケット”

http://townmarket.jp/CSP/CSP01/CSP0100020.jsp

地域を指定してお店の種類も指定してチラシが見れます

これなら新聞の配達区域外でもOK

しかもユニクロなんかのHPでは”デジタルちらし”なんてのもありました

世の中進んでいたんですね(^^♪



■全ての写真はクリックすれば拡大(XGA)します--- Let's try!

初詣に女化神社に行ってきました2010年01月02日 20時28分28秒

元旦に続いてテニスの後”満天の湯”でゆっくりしてから初詣に行ってきました

混んでるところは嫌いなので近場の竜ヶ崎にある女化(おなばけ)神社

着いたのは完全に日も暮れた時間だったのですがデジカメの夜間撮影能力のテストもかねて撮影しました

入り口の鳥居です



続いて途中にある鳥居


何故かこちらは白


今年の健康とテニス、スキー&ゴルフの向上を祈念してまいりました(^_^)

キャノンのデジカメはフラッシュの光量が足りない割にはよく写りますね

■全ての写真はクリックすれば拡大(XGA)します--- Let's try!

第142弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人のふるさと 帰化人の言葉2010年01月03日 00時34分36秒



第142弾  のむけはえぐすり

古代の帰化人のふるさと 帰化人の言葉

 

大伽耶が滅びに向かう頃、倭の欽明天皇の時代には、百済からの帰化人が多かった。

 

一つの流れは、東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)が呼び寄せたという学者や僧侶や技術民で、今来漢人(いあまきのあやひと)や百済才伎(くだらのてひと)と呼ばれ、大和武市郡に安置された人々である。もう一つの流れは、王辰爾(おうしんに)の船史(ふねのふひと)、胆津(いつ)の白猪史(しろいのふひと)、牛の津史のような、外交文書・籍帳などの作成に技術を持った人々で、河内の古市や丹比に居住した人々である。

 

そう書くと、いつも私が疑問に思うことがある。当時、朝鮮半島から渡来した帰化人たちは、何語を話していたのかということである。その解答を求めて、藤井游惟氏の「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」という本を読んでみた。しばらくその本の紹介が続く。ただし、白村江の敗戦は663年、大伽耶が滅んでから100年後のことである。

 

万葉集の原本では、百人一首にある「春過ぎて 夏来るらし・・・」という持統天皇の和歌は「春過而 夏来良之・・・」と書かれたり、「世の中は むなしきものと・・・」という大伴旅人の和歌は「余能奈可波 牟奈之伎母乃等・・・」と書かれたりしている。前者は名詞や動詞の語幹には漢字の訓読みを、助詞や活用語尾には音読みを用いた漢字仮名交じり文といい、後者は漢字の意味を無視して一字一音が当てられており、一般に万葉仮名というが、藤井氏は借音仮名という言い方がお勧めのようだ。

 

この借音仮名は中国語の発音を日本語の音韻感覚でまねたものだが、奈良時代の漢字の発音辞典(韻書)に照らし合わせてみると、イ・エ・オの段に集中して、13音が二種類の漢字(便宜的に、甲類、乙類と呼ぶ)で書き分けられていることが、本居宣長の頃から言われていた。

 

例えば、「コ」の甲類と呼ばれるものには、出現頻度の順に、古、胡、姑、固などが使われ、現代でもほとんどがコと発音されている字だ。同じように乙類は許、巨、渠、去などで、現代ではキョと発音される字だ。甲類と乙類が逆に使われることはなく、上代特殊仮名遣いと呼ばれている。

 

この現象を説明するのに、古代には母音が八つあったとか、六つだったとか、それがいつの間にか五つになったとか、論争があった。それを藤井氏は、条件異音という考え方で説明する。例えば、アオと連続して発音する時と、イオと連続する時のオの唇の形が違っていることに注目する。そのような音声学的に異なる単音を異音といい、接続する母音や子音、アクセントなどの条件によって規則的に現れる異音を条件異音といっている。日本人同士には同じオの音にしか聴こえない条件異音を聞き分けられるのは、外国人しかいないという。

 

古代で、条件異音を聞き分け、それを漢字で表現できる外国人というのは、バイリンガルな二世ということになる。そこで、万葉集や記紀が書かれた700年前半に注目すると、そこが二世となる一世の年代は、膨大な記録を必要とした庚午年籍が書かれた670年以降という時期に相当する。その頃に急増した文字を書く人々とは百済の帰化人が考えられ、それは白村江の敗戦によってもたらされた結果だというのだ。

 

百済が滅亡し、白村江の敗戦で百済再興の夢が潰えた。その頃に帰化してきた百済人が余りにも多かったので、665年には百済の男女400余人が近江の神崎郡に、666年には2000余人が東国へ、669年には700余人が近江の蒲生郡に移住させられた。それ以外にも、記録に残らない百済人がたくさんいたと考えられる。

 

百済からの帰化人たちは身分も高く、教養もあり、文字を書く知識人であった。日本で文書や籍を作る役人として登用されたものも多く、そういう人々は史(ふひと)の姓を名乗った。新撰姓氏録には史の姓を持つ氏族が28あり、そのうちの3氏以外が帰化人の出自を持つ諸番に属している。残りの3氏も皇別とはいうが、怪しいらしい。この史の姓を持つ氏族の二世たちが記紀万葉を書いたと、藤井氏は推測している。

 

古代の朝鮮語には、高句麗語、百済語、新羅語があったはずだ。時代はさかのぼるが、魏志三韓伝には、辰韓と馬韓の言語は同じではなく、弁辰と辰韓は似ていると、書かれている。馬韓の人口は弁辰、辰韓の人口よりも多いので、古代の朝鮮語を代表するのは馬韓語であった百済語であり、馬韓語と辰韓語の違いは大きな方言という程度の差であったと考えられている。

 

ところで、私が韓国語で알았어(アラッソ・分かった)と話すと、韓国人にはアラットと聞こえるらしく、私のあだ名はアラットになっている。(オ)と(オ)の発音の区別ができていないからだ。舌を上顎に着けずに、唇を丸めないで発音してみるのだが、なかなか難しい。日本語の中でオの発音が使い分けられる条件は法則化されているが、本当に韓国人がオの発音を聞き分けているかというと、私のあだ名がその証拠だろう。

 

日本人が感じる韓国語の中の条件異音もある。キムチと発音するキムチだが、水キムチを韓国人が発音すると、藤井氏が指摘するように私にもムルギムチに聞こえる。韓国人は自覚していないが、語のはじめでは清音となる語が、語の中で使われると濁音化するという条件異音が、韓国語の中にもあるという例だ。

 

写真は、全州の慶基殿にあった李朝第4代世宗大王の肖像画である。この世宗大王がハングル文字を作らせ、それを訓民正音として公布したのが1446年である。その際、朝鮮語の音韻を分析し、口の中の舌の位置を示すように母音を表記した。ハングルの発音は翌年に公布された東国正韻によって明文化された。

 

藤井氏の本を読んで、古代の帰化人は日本語ではない言葉を話していたと思うようになった。多分百済語なのだろうが、それが今のハングルと同じかというと、800年もの間があるので何とも言えない。

 

参考文献

1)藤井游惟:白村江敗戦と上代特殊仮名遣い、リフレ出版、2007



第143弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 鬼室神社2010年01月15日 20時55分31秒





第143弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 鬼室神社

 

663年の白村江での敗戦の後、敗軍と共に多くの百済人が渡来し、帰化人となった。帰化人は、3年間、国費によって養われた後、近江の神崎郡、あるいは東国へと移住した。佐平余自信、佐平鬼室集斯(きしつしゅうし)ら男女700余人は、669年に近江の蒲生郡に移住した。

 

地図に赤丸印をつけた現代の滋賀県蒲生郡日野町小野に、鬼室(きしつ)神社がある。そこに鬼室集斯の墓があるというので訪ねてみた。

 

新幹線を米原駅で下りて、近江鉄道に乗り換える。来た電車に飛び乗れば最短時間でたどり着けるという都会の感覚は、この路線には通用しない。次々に通り過ぎる東海道線の電車を横目で見ながら、列車を待つ。ようやく到着した黄色い2両編成のワンマン電車は、単線を折り返して出発する。その電車は彦根を過ぎ、高宮駅から多賀神社へ向かうというので、後続の電車を30分ほど待った。その間、無人の改札を出ては、何もない駅周辺を当てもなく散策する。時間の流れは恐ろしいほど緩やかだ。

 

次の貴生川(きぶかわ)行きの電車は、左に湖東三山を見ながら、愛知川(えちがわ)駅、五個荘駅を過ぎる。この辺りは、かつて秦氏の分流、愛知(えち)秦氏の居住地だ。現在は、一部上場の工場が目立つ。

 

八日市を過ぎた辺りから、実りの秋の風景が広がる。稲穂は頭を垂れる前に、黄金色に輝きを増す時があるようだ。車窓の外に広がる光景のまぶしさは、幼い頃に見たはずなのに、初めて見る思いがした。

 

日野駅からはタクシーで鬼室神社へと向かう。

蒲生野の南にある日野は、鈴鹿山地から流れる日野川の段丘にある。古くは匱迮野(ひっさの)という地名で、天智天皇が670年に都の候補地として訪れたことがある。4世紀から5世紀にかけての古墳群や遺跡が多い所でもある。タクシーの運転手に聞くと、日野を訪れる観光客の多くは、織田家の重臣として活躍した蒲生家ゆかりの地を巡ったり、「売り手よし、買い手よし、世間よし」をモットーに活躍した近江商人の旧家を訪ねたりするそうで、鬼室神社を訪ねる人は「去年いましたナ」という返事だった。土地の人がそう呼ぶのだろう、「きむろじんじゃ」と運転手は言いながら、迷うことなくたどり着いた。

 

稲刈りの終わった田が、段差を重ねて山裾まで続いている。道路から下りた先に、手水舎と石造りの鳥居と社がある。社には工事中の足場が組まれ、道ばたには鬼室神社と書かれた石碑がある。手前の広場には、韓国の田園でよく見る田んぼの中の休憩所と集会所をかねた오두막(オドゥマ)のような建物が建築中である。

 

境内の手前に案内板があり、韓国語と日本語で書かれている。そこには、鬼室集斯の父、鬼室福信将軍が韓国の忠清南道の扶餘郡(プヨ)恩山面の恩山別神堂に祀られているので、恩山市と姉妹都市として交流があると記されている。

 

鬼室福信(きしつふくしん)の身分は西部恩卒というから、同じ時の挙兵した中部達卒の余自信の方が位が上だ。百済が滅んだ後、鬼室福信は百済復興のために活躍した。人々は百済第一の官位である左平をつけて、左平鬼室福信と呼んで尊敬したという。鬼室福信は倭にいた百済の王子の豊璋(ほうしょう)を百済王として迎えた。だが、百済王となった豊璋に謀反の疑いをかけられ、鬼室福信は穴を開けられた手を革紐で縛られ、斬首された。首は酢漬けにされ晒されたという。間もなく、倭の援軍は白村江で敗れ、百済の高官たちは家族と合流して、敗れた水軍の船で海を渡ってきた。

 

その時に鬼室集斯も、家族と共に逃げてきたのだろう。その2年後には、百済の帰化人たちに官位が授けられ、鬼室集斯は父の功績により小錦下(しょうきんげ)の位を賜った。

 

鬼室集斯がこの地に移住してきた翌々年の671年には、鬼室集斯は学頭職(がくしきのかみ)という学問を司る役所の長官に任命された。同じ時に、余自信は法官大輔となり、50人を越える百済の帰化人もそれぞれの知識に応じて兵法、五経、陰陽の官人として取り立てられ、官位が与えられた。この時の薬に詳しいとされる人の中には、鬼室集信の名もみえる。多分、身内なのだろう。

 

さて、話は現代の鬼室神社に戻る。

本殿の裏に回ると、1mほどの高さの石の祠があり、柵に囲まれ、扉には錠前がかけられている。「滋賀のなかの朝鮮」という本によれば、中に高さ50cmほどの八角形の石があるという。

 

石の正面には鬼室集斯墓、左側面には庶孫美成造、右側面には朱鳥三年戊子十一月八日と刻まれているという。額面通りならば、鬼室集斯が死んだのは688年で、子孫の美成がこの墓碑を作ったということになる。明治の頃まで、美成の姓を名乗る家があったというのだ。新撰姓氏録によれば、鬼室の姓は百済公に改姓している。境内にある平成6年に建てられた手水舎の奉納者の名前を見ると、森岡や中西の姓が複数あるが、それらしい名前は見あたらなかった。

 

今は所在不明という話だが、12kmほど離れた山の中に「鬼室王女」と書かれた石碑があったというからもっと驚く。鬼室集斯よりも少し早く亡くなった娘の墓だったという。身内がいたり、娘がいたり、移住してきた百済の男女700余人とは、一族郎党を引き連れていたようだ。

 

改装中の本殿の柱は今にも朽ちそうだった。本殿の銅製の鈴には、何やら書かれたサラシが埃にまみれて数本垂れ下がっていた。帰ろうとする私の背中に、大工が、「11月8日の祭りにはきれいになっているから、また来たらいいよ」と声をかけてくれた。

 

参考文献

1)朴鐘鳴:滋賀のなかの朝鮮 歩いて知る朝鮮と日本の歴史、明石書店、2003

2)宇治谷猛、全現代語訳 日本書紀、講談社学術文庫、2009

 


恒例のX'masパーティ2010年01月16日 22時19分48秒


昨年12/29にフライペン恒例のX'masパーティが開かれましたので・・・

さわりだけ

単なる乱痴気騒ぎという声を聞こえてきますがこれがなくてはフライペンは年が越せない(^_^)












































お疲れ様でした・・・

のむけはえぐすり 鬼室神社のびっくり2010年01月18日 21時19分38秒



鬼室神社のびっくり 1)
鬼室集斯の墓碑の入った祠。

鬼室神社の裏にある。
中には八角形の石があり、正面に鬼室集斯墓、左側面に庶孫美成造、右側面に朱鳥三
年戊子十一月八日と刻まれているという。


鬼室神社のびっくり 2)

鬼室神社の本殿。
本殿の柱は朽ちそうで、銅の鈴からは、何やら書かれたサラシが埃にまみれて数本、
垂れ下がっている。


鬼室神社のびっくり 3)

神社の前の案内板
韓国語と日本語で書かれている。
集斯の父親、鬼室福信が忠清南道の扶余に近い恩山面の恩山別神堂に祀られている。
その関係で、恩山市と姉妹都市として交流があるという。

第144弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 石塔寺2010年01月22日 19時18分59秒







第144弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 石塔寺

 

百済の帰化人、佐平余自信と佐平鬼室集斯(きしつしゅうし)ら男女700余人が移住したという蒲生郡は、現代の近江八幡から日野にかけて、蒲生野を中心とした日野川流域の広い範囲である。

 

 日野川の支流の佐久良川を下り、地図の赤丸印の鬼室神社から直線距離で8Kmほど離れた所に、黄色の丸印の石塔寺(いしとうじ)がある。

 

石塔寺の下馬と書かれた大きな石碑の前で、タクシーを降りる。真新しい「阿育(あしょか)王山 石塔寺」の石碑を過ぎると、右手に山門があり、正面に一直線に見上げる158段の石段がある。石段の両側には、高さが30cmほどの石塔や双体神の石仏が置かれている。階段を登ると、壮絶な光景に息を呑む。写真のように無数の石塔と石仏が並び、中央に高さ7.5mの巨大な三重塔が立っている。

 

三重塔の一段目には花崗岩でできた長方体の巨岩が二つ並べられ、全体を力強く支えている。2段目と3段目には立方体の岩が乗せられ、間に分厚い一枚岩でできた屋根が3枚水平に突きだしている。後世につけられたという相輪は天に向かい、三重塔の偉容を増している。

 

今まで見た慶州の仏国寺の三重塔、密陽の表忠寺の三重塔、忠州の7層の中央塔、光州の雲住寺の七重塔と比べても、よく似ているが、この塔の見る人を圧倒する力強さにはどれも及ばない。

 

 

寺で買った絵はがきの「石塔寺略縁起」によると、石塔寺は聖徳太子が近江に48ヶ所お寺を建てた中で、48番目の結願のお寺だという。平安時代には一条天皇が七堂伽藍を建て、遠くからもたくさんの参拝者が訪れた。小さな五輪塔や石仏は鎌倉時代からのもので、先祖供養や善根功徳を積むために奉納され、今のように3万を越える数になった。木造の伽藍は織田信長の焼き討ちによって焼失した。

 

この三重塔は百済後期に作られた扶余にある定林寺の五重塔を原型にして、奈良時代前期に作られ、百済の帰化人と関連があるとされている。

 

奈良時代前期にこの辺りに住んでいた百済系の帰化人には、主なところでは5世紀末から6世紀初頭に帰化してきた大友日佐(おさ)氏とか鏡日佐氏が挙げられる。その他に、御船(みふね)氏や民使(みたみのつかい)氏もいた。勢力を誇った安吉勝(あきのすぐり)は、秦氏系なので除外しておく。地理的にも近く、669年に鬼室集斯や余自信らと共に移住してきた百済人の子孫の可能性もある。だが、このような大掛かりなものを一氏族だけで作るのは大変だとすれば、周辺に住む帰化人のいくつかの氏族が協力した可能性も考えられる。それほど、蒲生野には帰化人が多かったのだ。

 

その頃、蒲生野には朝廷が薬猟(くすりがり)をするための禁足地、標野(しめの)があった。薬猟では、女性は貴重な薬草である紫草を採り、男性は角を取るために鹿狩りをするという。

 

天智天皇は667年に大津に都を移し、6685月に蒲生野で薬猟を催した。その時に歌われた万葉集の有名な相聞歌がある。

 

大海人皇子(おおあまのおうじ)は天智天皇の弟で、次の天皇となる皇太弟であった。大海人皇子が初めて結婚した相手は才色兼備の宮廷歌人、額田王(ぬかだのおうきみ)で、二人は長女の十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけている。当時は、皇族間の近親婚が盛んに行われ、政略結婚に使われた時代であった。天智天皇の4人の娘のうち、太田皇女と鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・のちの持統天皇)は大海人皇子の妃になり、代わりにということなのだろうか、額田王が天智天皇の後宮に入っている

 

薬猟のあとの宴の席で、天智天皇は大海人皇子と額田王に歌を作るように指名した。昼の薬猟で二人が偶然に出会った時のことを思い浮かべ、まず額田王が歌う。

「茜(あかね)さす 紫野ゆき標野ゆき 野守がみずや 君が袖振る」

 紫草の生えている御料地の野をあちらに行き、こちらに行き、野を見張る番人が見はしないでしょうか、そんなに袖をお振りになって、という意味だ。

大海人皇子が返歌する。  

 「紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋いめやも」

   紫草のように美しいあなたが憎いと思うのなら、あなたが人妻なのに、どうして恋などするものですか。

 

 天智天皇の前でおおらかに歌う二人の相聞歌を、元夫婦の戯れの歌と聞く人もいたし、二人は今も愛し合っていると思った人もいた。

 

天智天皇は晩年、長男の大友皇子への皇位継承を望むようになった。身の危険を感じた大海人皇子は吉野に逃れた。672年に天智天皇が亡くなると、大友皇子と大海人皇子との間で、全氏族を巻きこむ壬申の乱が起きた。大友皇子の正妃となっていた十市皇女は、父の大海人皇子の側についた。十市皇女の機転で窮地を脱した大海人皇子は、近江軍に勝利した。乱のあと、近江の豪族の多くが、失脚したという。

 

だが、蒲生野にいた百済系の氏族は生き延びた。それは、平安時代の初期、815年に編纂された新撰姓氏録の諸番の覧に、左平余自信の子孫は高野造姓を賜り、鬼室集斯の子孫は廃帝(淳仁天皇)天平宝字3年(759)に百済公姓を賜ったと記されていることで分かる。

 

石塔寺の三重塔が作られたのは、壬申の乱の後、半世紀も経った頃だ。その半世紀の間に、壬申の乱の直前に蒲生野に移住した700余人の百済人の子孫は栄え、石塔寺の三重塔を作った可能性はあると思う。

 

参考文献

1)大橋伸弥、小笠原好彦:新・史跡でつづる古代の近江、ミネルヴァ書房、2005

2)朴鐘鳴:滋賀のなかの朝鮮 歩いて知る朝鮮と日本の歴史、明石書店、2003

3)遠山美都男:壬申の乱、中央公論社、1996


のむけはえぐすり 石塔寺のびっくり2010年01月25日 21時28分02秒





のむけはえぐすり 1)
石塔寺のびっくり 1)
一直線に続く158段の石段。
30cmほどの高さの石塔や双体神が並んでいる。
丸石の上にある屋根の石が、
右に寄れたり、左に寄れたり。



石塔寺のびっくり 2)
坂を登り切ると、息をのむような光景が広がる。
一面に、小さな石塔と双体神が並んでいる。
その真ん中に、巨大な三重塔が立っている。
一目で、日本のものではないと直感する。


石塔寺のびっくり 3)
一見、雑然と見える小さな石塔が、
近づいてみると、整然と並んでいる。
日差しの中で、青い苔に覆われている。