第143弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 鬼室神社2010年01月15日 20時55分31秒





第143弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 鬼室神社

 

663年の白村江での敗戦の後、敗軍と共に多くの百済人が渡来し、帰化人となった。帰化人は、3年間、国費によって養われた後、近江の神崎郡、あるいは東国へと移住した。佐平余自信、佐平鬼室集斯(きしつしゅうし)ら男女700余人は、669年に近江の蒲生郡に移住した。

 

地図に赤丸印をつけた現代の滋賀県蒲生郡日野町小野に、鬼室(きしつ)神社がある。そこに鬼室集斯の墓があるというので訪ねてみた。

 

新幹線を米原駅で下りて、近江鉄道に乗り換える。来た電車に飛び乗れば最短時間でたどり着けるという都会の感覚は、この路線には通用しない。次々に通り過ぎる東海道線の電車を横目で見ながら、列車を待つ。ようやく到着した黄色い2両編成のワンマン電車は、単線を折り返して出発する。その電車は彦根を過ぎ、高宮駅から多賀神社へ向かうというので、後続の電車を30分ほど待った。その間、無人の改札を出ては、何もない駅周辺を当てもなく散策する。時間の流れは恐ろしいほど緩やかだ。

 

次の貴生川(きぶかわ)行きの電車は、左に湖東三山を見ながら、愛知川(えちがわ)駅、五個荘駅を過ぎる。この辺りは、かつて秦氏の分流、愛知(えち)秦氏の居住地だ。現在は、一部上場の工場が目立つ。

 

八日市を過ぎた辺りから、実りの秋の風景が広がる。稲穂は頭を垂れる前に、黄金色に輝きを増す時があるようだ。車窓の外に広がる光景のまぶしさは、幼い頃に見たはずなのに、初めて見る思いがした。

 

日野駅からはタクシーで鬼室神社へと向かう。

蒲生野の南にある日野は、鈴鹿山地から流れる日野川の段丘にある。古くは匱迮野(ひっさの)という地名で、天智天皇が670年に都の候補地として訪れたことがある。4世紀から5世紀にかけての古墳群や遺跡が多い所でもある。タクシーの運転手に聞くと、日野を訪れる観光客の多くは、織田家の重臣として活躍した蒲生家ゆかりの地を巡ったり、「売り手よし、買い手よし、世間よし」をモットーに活躍した近江商人の旧家を訪ねたりするそうで、鬼室神社を訪ねる人は「去年いましたナ」という返事だった。土地の人がそう呼ぶのだろう、「きむろじんじゃ」と運転手は言いながら、迷うことなくたどり着いた。

 

稲刈りの終わった田が、段差を重ねて山裾まで続いている。道路から下りた先に、手水舎と石造りの鳥居と社がある。社には工事中の足場が組まれ、道ばたには鬼室神社と書かれた石碑がある。手前の広場には、韓国の田園でよく見る田んぼの中の休憩所と集会所をかねた오두막(オドゥマ)のような建物が建築中である。

 

境内の手前に案内板があり、韓国語と日本語で書かれている。そこには、鬼室集斯の父、鬼室福信将軍が韓国の忠清南道の扶餘郡(プヨ)恩山面の恩山別神堂に祀られているので、恩山市と姉妹都市として交流があると記されている。

 

鬼室福信(きしつふくしん)の身分は西部恩卒というから、同じ時の挙兵した中部達卒の余自信の方が位が上だ。百済が滅んだ後、鬼室福信は百済復興のために活躍した。人々は百済第一の官位である左平をつけて、左平鬼室福信と呼んで尊敬したという。鬼室福信は倭にいた百済の王子の豊璋(ほうしょう)を百済王として迎えた。だが、百済王となった豊璋に謀反の疑いをかけられ、鬼室福信は穴を開けられた手を革紐で縛られ、斬首された。首は酢漬けにされ晒されたという。間もなく、倭の援軍は白村江で敗れ、百済の高官たちは家族と合流して、敗れた水軍の船で海を渡ってきた。

 

その時に鬼室集斯も、家族と共に逃げてきたのだろう。その2年後には、百済の帰化人たちに官位が授けられ、鬼室集斯は父の功績により小錦下(しょうきんげ)の位を賜った。

 

鬼室集斯がこの地に移住してきた翌々年の671年には、鬼室集斯は学頭職(がくしきのかみ)という学問を司る役所の長官に任命された。同じ時に、余自信は法官大輔となり、50人を越える百済の帰化人もそれぞれの知識に応じて兵法、五経、陰陽の官人として取り立てられ、官位が与えられた。この時の薬に詳しいとされる人の中には、鬼室集信の名もみえる。多分、身内なのだろう。

 

さて、話は現代の鬼室神社に戻る。

本殿の裏に回ると、1mほどの高さの石の祠があり、柵に囲まれ、扉には錠前がかけられている。「滋賀のなかの朝鮮」という本によれば、中に高さ50cmほどの八角形の石があるという。

 

石の正面には鬼室集斯墓、左側面には庶孫美成造、右側面には朱鳥三年戊子十一月八日と刻まれているという。額面通りならば、鬼室集斯が死んだのは688年で、子孫の美成がこの墓碑を作ったということになる。明治の頃まで、美成の姓を名乗る家があったというのだ。新撰姓氏録によれば、鬼室の姓は百済公に改姓している。境内にある平成6年に建てられた手水舎の奉納者の名前を見ると、森岡や中西の姓が複数あるが、それらしい名前は見あたらなかった。

 

今は所在不明という話だが、12kmほど離れた山の中に「鬼室王女」と書かれた石碑があったというからもっと驚く。鬼室集斯よりも少し早く亡くなった娘の墓だったという。身内がいたり、娘がいたり、移住してきた百済の男女700余人とは、一族郎党を引き連れていたようだ。

 

改装中の本殿の柱は今にも朽ちそうだった。本殿の銅製の鈴には、何やら書かれたサラシが埃にまみれて数本垂れ下がっていた。帰ろうとする私の背中に、大工が、「11月8日の祭りにはきれいになっているから、また来たらいいよ」と声をかけてくれた。

 

参考文献

1)朴鐘鳴:滋賀のなかの朝鮮 歩いて知る朝鮮と日本の歴史、明石書店、2003

2)宇治谷猛、全現代語訳 日本書紀、講談社学術文庫、2009

 


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