カレッタ汐留に行ってきました2010年01月27日 20時56分27秒



ちょっと前になりますが”カレッタ汐留”に行ってきました
おしゃれなお店の並びになんとかの”県泰豊”もありました

そしてパリのセレブもご贔屓にしているというアンジェリーナも



もちろんここは自慢のモンブランです


かなり甘いのですが僕は好きです

そして今回行った目的はこれ・・・

1月11日までやっているというイルミネーション

葉加瀬太郎がプロヂュースしているということで”情熱大陸”のあの音楽が流れてました


動画は次のページ(じゃないか)で。。。

第145弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 百済寺2010年01月29日 21時34分53秒






第145弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 百済寺

 

百済の寺と書いて、百済寺(ひゃくさいじ)と読む。鈴鹿山脈の麓に北から西明寺、金剛輪持、百済寺と三つの天台宗の寺が並ぶ湖東三山の中では、最も古い寺である。

 

百済寺の駐車場から石段を登り、近江湖東二十七名刹霊場 第十一番と書かれた山門をくぐると、大きな菩提樹のある広場へ出る。本堂に向かう石段の左右の所々に、五十坪ほどの平坦な空き地がある。楓の森が日差しを遮り、灌木もなく、枯れ葉に覆われている。その空き地の一つ一つが、かつて房舎のあった跡だという。

 

鎌倉時代から室町時代の最盛期には、300の房舎があり、この山一帯に僧侶と俗人を合わせて1200人ほどが住んでいた。度重なる失火や戦火によって、再建が繰り返されたが、1498年の大火では本堂を含めた寺の中心部のほとんどが失われた。その後地元の豪族たちによって再建され、ここを訪れたキリスト教の宣教師Luis Froisが「地上の楽園 一千房」と驚嘆したほど栄えた。

 

参道の両側の石垣は、間に小さな石を挟んで3040cmほどの自然の石が積み上げられている。野面積(のずらづみ)という手法で、百済寺が山城化された頃の名残だそうだ。大きな石は、信長の命により安土城を建設する時に運ばれてしまった。その様子は、本坊の喜見院の仏間前室にある絵馬「石引図額」に描かれている。だが、参道の両側にある石垣は、小さな石だったために残されたという。

 

写真のように、両側を石垣で囲まれた石段の先に、1650年に本堂とともに建てられた仁王門がある。

 

正面に4mほどの大きな草鞋(わらじ)が、左右に吊り下げられている。平成14年に奉納されたと記され、普通サイズのカラフルな布の草鞋の他に、お賽銭のつもりなのか、藁の間に一円玉がたくさん挟んである。口と目に赤い塗料が残り、灰色の木肌をさらしている阿吽の仁王像は、門を通る者をにらむように対面して置かれている。

 

石段を右に曲がると、千年菩提樹がある。菩提樹の真ん中は80cmほどの空洞になっていて、その周囲から10本ほどの木が放射状に伸びている。天正元年(1573)4月7日の信長による百済寺焼き討ちによって、幹は焼けてしまい、残った根から今のような姿に蘇ったというのだ。7月上旬には、萌葱色の小さな花が優しい匂いを放つという。

 

格子から本堂の中をのぞくと、毘沙門天と不動明王に守られた金色の仏像がある。その奥の仏壇の中に、高さ2.6mの木造十一面観音菩薩の立像が納められている。根がついたまま聖徳太子自らが彫刻したので、植木観音という名前で呼ばれている。秘仏のため、ご開帳以外にはお目にはかかれない。信長の焼き討ちでは、奥院に置かれていたため、戦火を免れたという。

 

クダラ寺と呼ばれていた百済寺が、平安時代(1144)に天台宗に改宗した時からヒャクサイ寺と変わったのはよいとして、なぜ百済寺と呼ばれるようになったのか。そこが私には大いに興味があるところだ。

 

百済寺は、推古天皇14年(606)に、聖徳太子の発願で、高麗僧の恵慈(えじ)が祈願導師となり、百済僧の道欣(どうごん)が供養して、百済国の龍雲寺に模して建立されたという。百済寺と呼ばれたのは、百済僧たちが住持だったからかも知れない。

 

また、周辺にいた百済の帰化人の氏寺となっていたことも考えられる。聖徳太子の頃にこの付近を流れる宇曽川流域にいた帰化人は、愛知(えち)秦氏、大友日佐(おさ)、旦波博士であった。範囲を広げて、宇曽川の北を流れる犬上川流域には、穴太村主(あのうのすぐり)、穴太曰佐、錦村主などがいた。時代は下るが、665年に神埼郡に移住した百済の男女400余人なども近い。

 

穴太の名前をみてピンと来るものがあった。

 

穴太村主は倭漢(やまとあや)氏配下の志賀漢人一族で、大津北郊、現代の坂本市の近くを本拠地とした百済系の帰化氏族である。古くは、教典の書写や校正、あるいは明法博士として活躍しており、石と関係のある仕事をしていたわけではない。ただ、比叡山延暦寺が発展して一大宗教都市を形成するようになると、石塔、石仏、石垣、敷石といった石製品の需要が増し、それを穴太の人々が周囲の山から石を切り出して供給した。穴太の人々が自然石を積み上げた野面積(のずらづみ)の石垣を穴太積みといい、比叡山や門前町の坂本一帯には今も数多く存在している。

 

1571年、比叡山が織田信長によって焼き討ちされると、比叡山に頼って生計を立てていた穴太衆は職を失った。そこに、穴太積みの評判を聞いた織田信長から、安土城の石垣建築の沙汰が下った。天守閣は高さ22mの石垣の上に築かれ、石積の見事さに穴太衆は一躍脚光を浴びた。それからは、穴太頭に率いられた穴太衆は全国の大名から居城の石垣造りを依頼され、各地に穴太積みの石垣を残した。中には、穴太駿河だ、穴太三河だと受領名がつくほどの身分になった者もいたという。

 

江戸時代になっても、徳川幕府は諸大名に普請を命じたので、穴太衆は高禄で大名に召し抱えられた。やがて、太平の世になって石垣造りの仕事は激減し、穴太衆の存在は忘れ去られていった。

 

百済寺の近くに穴太氏の一族が住んでいた。百済寺の本坊、喜見院の仏間前室の「石引図額」に描かれていた人々は、信長の命を受けた穴太衆だったのだろう。百済寺の石垣は室町時代から地元武士によって作られた百済寺城のものだというが、それを造ったのは、有名になる前の百済の帰化人、穴太村主の子孫ではないかと思った。

 

参考文献

1)河合敦:戦国「異能」集団、穴太衆、歴史読本4414)、70-1999

2)高林祐志ほか編:湖東三山、世界文化社、2006

3)朴鐘鳴:滋賀のなかの朝鮮 歩いて知る朝鮮と日本の歴史、明石書店、2003