第151弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 銅鐸博物館の須恵器2010年04月26日 22時33分40秒





第151弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 銅鐸博物館の須恵器

 

 写真は大津歴史博物館に展示されていた、太鼓塚古墳群の33号墳からの出土品である。

 

 写真の右の方にある赤茶色と黄土色の土器は、弥生式土器の系譜をひく、素焼きの土師器(はじき)である。左の方にある灰色の土器は、朝鮮半島の陶質土器の系譜をひく須恵器である。

 

写真の中央にあるスカートをまいた人形のような固まりがミニチュアの炊飯器で、その再現された姿は右端にある竈(かまど)だ。竈は初期の須恵器がある集落や古墳群には同時に存在し、移動式のものは韓竈(からかまど)と呼ばれ、帰化人の移住と共に普及していった。このミニチュアの竈はその名残だろう。

 

写真の右手にある長い脚の土師器は高坏(たかつき)と呼ばれ、須恵器にも同じデザインがある。土師器と須恵器はお互いにデザインを真似合っていて、工人同士の交流があったと考えられている。また、土師器と須恵器が同じ古墳の中に副葬されていたことは、土師器と須恵器が生活の中で同時に使われていたことを示している。調理具としては耐火性に優れている土師器が、貯蔵具としては堅牢で漏水しにくい須恵器が、供膳具としては両方が役割分担して使われていたと考えられている。

 

真ん中にある蓋のついた杯は蓋杯(ふたつき)と呼ばれ、5世紀の伽耶や新羅地方には存在しなかったものだ。伽耶についての「のむけはえぐすり」でたびたび紹介した朴天秀さんによれば、初期の日本の須恵器は朝鮮半島海岸部の影響が強く、後になるほど伽耶内陸部の影響が見られるという。

 

須恵器は日本に来てから日本化したという。例えば、朝鮮半島では装飾がある器形とない器形がはっきりしていたが、日本では装飾があるものが一般的になったとか、朝鮮半島では脚のある高坏が主だったが、日本では蓋杯になったとか、デザインがさまざまであったものが、日本では定型化したとか、いわれている。

 

この蓋杯の形は地域的な特徴を持ちながらも、結局は日本の須恵器の生産を終始リードした大阪の泉北丘陵一帯の陶邑の変化に合わせており、作られた須恵器の編年も推定しやすいという。戦後間もない頃に、樋口さんが津島の古墳から出土した須恵器を分類して、400年代後半の第1形式、500年前後から500年前半の第2形式、500年後半から600年頃の第3形式、600年を下る飛鳥時代の第4形式に分けることを提唱した。

 

蓋杯の分類では、次のようになる。

時代を追うごとに、蓋を受ける部分の垂直だった立ち上がりが斜めになり、高さも低くなる。蓋の形は次第に肩の張り弱くなり、杯の方も腰の出っ張りが少なくなり、杯の底部は丸くなっていく。全体としてアンパン型からドラ焼き型へと変わるわけだ。第4形式では、蓋の真ん中に擬宝珠型のつまみがつけられるようになるという。

 

日本書紀の垂仁天皇三年に、近江の鏡の谷の陶人は新羅の王子である天日槍のゆかりの人々だと記されている。鏡の谷は野洲市と竜王町にかけての鏡山の北麓に比定され、6世紀から8世紀に須恵器を焼いた窯跡は150基以上にのぼる。中でも北西部の夕日ヶ丘窯跡群にある20基は最も古く、6世紀前半に築かれたという。近江には、この鏡山北西麓のほかに、鏡山北東麓、水口町、堅田町、愛知町などにも古窯址群(こようしぐん)があるが、第1形式にあたる初期の須恵器を焼いた古窯址は見られないという。

 

鏡山古窯址群に最も近い博物館は、鏡神社から2kmほど離れた地図の赤丸印、野洲市立歴史民俗資料館だ。近くの大岩山古墳群から出土した銅鐸がたくさん展示され、銅鐸博物館とも呼ばれている。鏡山古窯址群で焼かれた須恵器が展示されているとすれば、そこだろうと考えて行ってみた。銅鐸に比べると、須恵器の展示はわずかだが、館員の方が熱心に鏡山古窯址群について書かれた資料を持ってきてくださった。残念ながら写真撮影が禁止されているので、そちらの写真は掲載できない。

 

野洲市立歴史民俗資料館に展示されている須恵器は、そこから直線距離で2Kmほど離れた木部天神山古墳からの出土品だった。墓そのものは6世紀中頃に築かれた直径40mほどの円墳で、地元の有力な首長の墓だという。

 

まず気づくのは、レプリカとはいえ、ガラスのような須恵器の薄さと、深みのある緑の色だ。薄さは轆轤技術の高さを物語っている。須恵器の色は、長さ10mを超すトンネル式の窯の中で、1000度を超える高熱で焼くことによって、不完全燃焼でできた一酸化炭素が粘土の中の酸化第二鉄から酸素を奪い、酸化第一鉄となることによって描き出されるという。この須恵器には陶邑から伝搬した技術だけではなく、伽耶直輸入の技術の高さがあるように思われた。

 

 展示されている須恵器は、子持脚付(こもちきゃくつき)装飾壺という実用でない形のものや、脚の長い高坏や「はそう」であり、蓋杯の展示はない。展示の上の壁に、初期の鏡山古窯址群から出土した蓋杯の写真が掲示されていた。その蓋杯の腰は出っ張り、底は平らで、蓋受けは長く、内側に向いている。樋口さんの分類では、第2形式よりも編年が下がりそうだ。この蓋杯の蓋ではないと思われるのだが、隣にある蓋には扁平に押しつぶされた形のつまみがついている。

 

今回、銅鐸博物館の須恵器を見て、鏡山の須恵器を作る技術水準は相当高かいことが分かった。ただ、鏡山で須恵器が作られ始めた実年代は、500年以前にさかのぼることはなさそうだということも分かった。やはり、天日槍と陶村の人々との関係は漠然としたイメージの話で、そのイメージとは同じ故郷の帰化人ということだろうと思った。

 

 参考文献

1)中村浩、望月幹夫編:土師器と須恵器、普及版 季刊考古学、雄山閣出版、2001

2)菱田哲郎:須恵器の系譜、講談社、1996