第152弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 金剛輪寺2010年05月02日 17時53分29秒






 第152弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 金剛輪寺

 

 地図の鈴鹿山脈の麓にある赤丸印が、湖東三山の西明寺と百済寺の間にある金剛輪寺である。依智秦氏の上蚊野古墳群から、宇曽川沿いに2Kmほど上流にある。地図では上蚊野古墳群の印は省略した。

 

地理的にも依智秦氏と関係がありそうだが、地元で呼ばれている松尾寺という名前も葛野の松尾神社に因んでいそうで、新羅からの帰化人、秦氏ゆかりの寺であることがうかがえる。

 

金剛輪寺は天平13年(741)に聖武天皇の勅願により、行基が開山した。行基が開山した寺は全国にも数多く、近江だけでも49院あったという。行基の父は新撰姓氏録の河内国諸番にある古志(こし)連出身で、王仁につながる百済の帰化人である。母の出自も蜂田薬師(くすし)で、やはり百済系の帰化人である。850年には金剛輪寺は延暦寺中興の祖、慈覚大師によって天台宗に改宗した。

 

山門に向かう石段の両側には、高さが30cmほどの新しい水子地蔵が並び、それが延々と続いている。判で押したように同じ形の水子地蔵の前には、ひとつひとつ赤や黄色の風車が供えられている。どの風車も回ることもなく、大人しくしている。

 

仁王門には増長天と持国天が安置され、ここにも大きな草鞋がつり下げられている。そういえば、山門の草履は百済寺にも西明寺にもあった。これまで気がつかなかったが、草鞋は旅の安全祈願なのだろう。一年のほとんどを行商で過ごす近江商人たちの祈りだと思った。

 

最後の急階段を上りきると、写真のような本堂の大悲閣がみえてくる。室町時代前期に作られ、織田信長の近江侵攻の際にも、戦災を免れたようだ。檜皮(ひわだ)で葺かれた屋根の優雅な曲線と、屋根を支える垂木の密な並びが印象に残った。

 

本堂に秘仏として厨子の中に安置されている本尊は、木造の聖観音像だ。行基が作る時にナタを入れると、血が流れ出たという言い伝えがあり、「生身の本尊」と呼ばれている。厨子の両側には四天王と十二神将が配され、十二神将は葛野の秦氏ゆかりの広隆寺にあった像と、大きさといい、形といい、とてもよく似ている。

 

かつて金剛輪寺の本堂には、もう一つ金銅造聖観音があった。明治初期に海外に持ち出され、現在はボストン美術館にある。1269年に造られた金銅造聖観音の銘文の中に、「近江の依智郡、松尾寺の本堂に安置されているこの像は、犬上利吉と依智秦氏の子孫の繁昌と現世の安穏を願って造られた」という意味のことが書かれているという。この寺が依智秦氏ゆかりの寺であり、このような本尊が一つの氏族だけの力ではなく、近隣の氏族と協力して建立されていたことが分かる。

 

金剛輪寺の総門に隣接して、愛荘町歴史文化博物館がある。館内にはボストンにある金剛造聖観音坐像の複製や、依智秦氏関連の資料や、上蚊野古墳群から出土した須恵器などが展示されている。須恵器でいえば、前回の「のむけはえぐすり」に書いた須恵器の編年分類の表現を借りると、蓋杯(ふたつき)の蓋受けの部分はかなり浅く、全体の形はあんパンというよりはどら焼きに近い。同じ形の物が2個並んでいるので、量産型のようだ。となると、時代は新しく、奈良時代以降のように思えた。くすんだ灰色の高坏は大理石のような光沢があり、質のよい登り窯で作られたことを物語っている。

 

もうひとつ私が注目したのは、虫に食われた古びた証文のコピーだ。掲示には近江国大国郷墾田売券と書かれ、開墾した田畑を売り渡した証明書である。大国郷は依智秦氏が多く住んでいたところだ。この証文は依智秦公の廣麻呂が近くの調首(つきのおびと)の新麻呂に売ったことを示す証文で、保証人や郷長に依智秦氏の名前がずらりと連なっている。買い主の調首新麻呂は、百済系の帰化人である。

 

延暦21年正月十日と記されているから、802年、百済の帰化人の高野新笠を母に持つ桓武天皇の治世のことである。調首新麻呂は墾田を購入する財力を持ち、「富豪の輩(ともがら)」と呼ばれていた中の一人だ。そのような目先の利いた人の中には、大国郷主の依智秦公の浄雄(きよお)もいた。彼らは税を払えなくなった依智秦の百姓から墾田を買い取り、墾田の収穫物を徴収する権利を得て、さらに墾田を集め、仲介者を経て東大寺に売っていた。その結果、依智秦氏の里は東大寺の荘園となった。同じように依智秦氏が多かった愛智庄は、元興寺の荘園となった。8世紀から9世紀にかけた始まった荘園化は鎌倉時代になるまで続き、依智郡には比叡山系の山門領や、大和の寺社による南都系の荘園が錯綜していたようだ。

 

愛智庄における元興寺の荘園はやがて東大寺に吸収され、最終的に一部は春日大社に寄進され、興福寺の管領になったという。

 

ここで、ふと思い当たることがある。百済の帰化人ゆかりの阿自岐神社の祭神に、天兒屋根命の名があり、境内に鹿の石像が置かれていたことだ。藤原氏の祖である天兒屋根命、藤原氏の氏寺の興福寺、興福寺と神仏習合の関係にある春日大社、春日大社の神使は鹿。連想ゲームのように結びつく。「愛知川町の歴史」で中世の荘園の分布図を見ると、安食の辺りが南都系の荘園となっていた可能性は充分にある。

 

新撰姓氏録が編纂され始めた頃で、帰化人であるということが意識されていた時代だ。先祖伝来の墾田を売り渡すのも、生き残りをかけた選択だったのだろう。帰化人がそうやって生きてきたという証だと思った。

 

参考文献

1)朴鐘鳴:志賀のなかの朝鮮、明石書房、2003

2)愛知川町史編集委員会:近江 愛知川町の歴史 第1巻 古代・中世編、2005