第153弾 のむけはえぐすり 先憂後楽 上田正昭先生2010年05月04日 04時12分00秒



第153弾  のむけはえぐすり

先憂後楽 上田正昭先生

 

平成22420日木曜日の7時から、日韓文化交流を目的としたコリアンカルチャーサロンが横浜の韓国会館で開かれた。今回は、「共に学ぼう、語ろう! 過去と未来」をテーマにした新シリーズの最初を飾るのに相応しく、古代史学の泰斗、京都大学名誉教授の上田正昭先生の講演があった。

 

 演題は「平安京と東アジア -桓武天皇と百済王朝」で、上田先生が自ら用意した資料を参照にしながら、時折白板に字を書いて講演をなさった。

 

 第50桓武天皇は光仁天皇の長男で、弟は早良(さわら)親王である。生母は高野新笠(にいかさ)といい、続日本紀の桓武天皇の延暦9年正月の条に、その前年に亡くなった高野新笠の出自が記されている。新笠は諱(いみな)で、姓は和(やまと)氏だが、後に氏姓を高野朝臣と改めている。父は和乙継(おとつぐ)で、母は大枝朝臣真妹(まいも)である。先祖は百済の武寧王(ぶねいおう)の子の純陀(じゅんだ)太子だという。さらに、百済の遠祖の都慕王(つもおう)は河伯(かわのかみ)の娘が太陽の精に感応して産まれたとも記されている。都慕王とは高句麗の始祖、朱蒙(チュモン)のことで、桓武天皇は百済王家の血筋をひく天皇であると明記されているわけだ。

 

 19716月、かつて百済の都があった熊津(ウンジン)、今の公州にある宋山里古墳群の6号墳の奥に未盗掘の墓が発見され、中から墓誌石が見つかり、大騒ぎになった。早速、上田先生も発掘調査を担当したソウル大学の教授から呼ばれ、見学なさったという。墓誌石には、「寧東大将軍の百済の斯麻(しま)王は523年に62才で亡くなり、525年にこの大墓に安葬した」という意味のことが記されていた。ドライアイスのない時代に遺体は2年間も仮安置され、(もがり)が行われたというから、有力な王であることは間違いない。

 

この斯麻王とは日本書紀の雄略天皇5年6月の条にみえる嶋君(せまきし)のことで、今の佐賀県唐津市鎮西町の加唐島(かからじま)で生まれたとされる。日本書紀の武烈天皇4年の条には、百済の末多王(東城王のこと)が無道で暴虐であったために国の人々から廃され、嶋王が即位して武寧王となったとある。日本書紀が引用した百済新撰によると、斯麻王は末多王の兄の琨支(こんき)王子が倭の筑紫の各羅(かから)島にいた時に生まれた子だとされているが、琨支王子の兄の蓋鹵王(こうろおう)の子であるという異説があることも併記されている。いずれにしても、宋山里第7号墳の被葬者は、百済王朝第25代武寧王とその妃であることが明らかとなった。

 

 百済人の子孫が生母である山部王(後の桓武天皇)が天皇になるとは、当時の誰もが想像していなかった。それだけに、即位後は精力的にさまざまな改革を断行する。その一つが、平安京への遷都である。平城京は7代の天皇の都ではなく、最後の桓武天皇を入れた8代であることを上田先生が力説なさったのも、桓武天皇が志した改革を強調なさりたかったのだろう。

 

即位後の桓武天皇は百済王(こきし)氏との関係を深めていく。百済王氏の祖は百済国最後の王、義慈王の子の善光である。百済復興運動で百済故地に戻り白村江で敗れた豊璋王は善光の兄で、日本に残った善光は持統天皇から百済王の姓を賜った。

 

百済王氏の活躍の始まりは、善光から数えて4代目の百済王敬福(きょうふく)である。天平21年(749)、聖武天皇の勅命による盧舎那大仏が完成に近づいたが、大仏を飾る黄金がなくて困り果てていた。そこに、陸奥守であった従五位上の敬服から、管内の小田郡で黄金が産出したとの報告が寄せられ、黄金900枚が献上されてきた。聖武天皇は大変喜ばれ、敬福は従二位に叙せられた。敬福は現代の枚方市にある百済王神社に祀られているという。

 

黄金産出の知らせを聞いて喜んだ越中守の大伴家持の詠んだ歌が万葉集にある。上田先生はその中の一節を朗読なさった。「海行かば 水浸(みづ)く屍(かばね) 山行ば 草生(む)す屍 大君のへにこそ死なめ 顧みはせじ」

知る人ぞ知るこの歌に、戦中派が多そうな前の方の席から驚きの声がもれ、しばし会場にざわめきが走った。

 

天平勝宝4年(7524月に盧舎那大仏は完成し、近隣の国はもとより、遠くベトナム、インドからの僧も含めた9799人の僧によって、大仏開眼の大法要が営まれた。大仏殿碑文にこの時の大仏師は従四位下の国公磨(くにのきみまろ)とあるが、白村江後に渡来した旧百済官僚の国骨富の三世である。

 

百済王氏譜をみると、敬福の子に従四位下の理伯がいて、理伯の長女に父よりも位が高い従二位の明信(みょうしん)がいる。この明信が女性ながら桓武天皇の大変な信頼を得た人である。

 

続日本紀の延暦9年(790)の条に、藤原朝臣継縄(つぐただ)を右大臣に任じたとある。この継縄が明信の夫で、桓武天皇は左大臣を置かなかったから、朝廷の第一人者である。桓武天皇は自ら「百済王らは朕の外戚であるから、その中から一、二人を選んで位階を授ける」と詔され、親族のうち3人が従四位から従五位の位を賜っている。女性たちも桓武天皇の後宮に入り、30人いた妃のうち9人は百済王氏であり、親王や内親王をもうけた者もいる。

 

人ばかりではない。遷都後に新笠の田村後宮から今の京都北区の平野神社に移された今木大神という新しい百済の神や、新笠の父の出身地である大和の平群(へぐり)群にある久度(くど)神という百済の神にも神階が与えられた。

 

桓武天皇は今の枚方市交野(かたの)にあった百済王の邸宅を13回も訪れている。延暦6年には、交野に中国の天の神、すなわち天帝を祀る郊祀(こうし)が置かれ、その祭文には大唐郊祀録がそのまま引用されている。また桓武という諱の由来も、詩経にある「桓々たる武王に・・・」に因んでいる。桓武天皇は国際的な教養に満ちた力強い天皇だったというのだ。

 

最後に、上田先生は「桓武天皇は百済王朝の血筋をひき、百済人の子孫との関係が深かったというのは史実です。歴史は史実に基づいて解釈するのであって、イデオロギーで解釈してはならない」と結ばれ、講演を終えられた。

 

講演の後で、私は愛読書である上田先生の著書「東アジアのなかの日本」にサインをしていただいた。その際、「近江の諸番、百済人の余自信の子孫が高野姓を名乗っていますが、関係はありますか」とお尋ねすると、「新笠の高野は地名で、全く関係はありません」というお答えだった。

 

先生のサインに添えられていた言葉は、先憂後楽。

先に不幸な時代があったからこそ、これからは仲良くとおっしゃりたかったのかも知れない。