第154弾 のむけはえぐすり 沙沙貴神社の少彦名神2010年05月21日 22時52分53秒



第154弾  のむけはえぐすり

沙沙貴神社の少彦名神

 

近江の安土駅から徒歩10分ほどの所に、地図の赤丸印、沙沙貴神社(ささき)がある。参道の途中には中山道武佐宿から移された「沙沙貴大社道是より十九丁」と書かれた石の道標があり、この県社の往時の繁栄が忍ばれる。

 

本殿の隣に、写真のような少彦名神(すくなひこなのかみ)の聖跡があり、右の門にその名が掲げられている。

 

古事記によれば、大国主命が島根県の美保の岬に着いた時に、ガガイモの船に乗り、蛾の皮をはいだ服を着て、迎えにきた小さな神がいる。その神が少彦名神だ。小さすぎて手からこぼれ落ちたが、確かに高天原の神産巣日神(かむむすびのかみ)の子だという。大国主命と二人で国造をし、国が豊かになると帰って行った。古事記にある神功皇后の歌の中で、「石立たす」が少彦名神の枕詞のように使われ、石の神ともいわれるが、病気を治す発想から温泉の神、薬の神、酒の神でもある。

 

ガガイモは10cmほどの実をつけるリンドウ目の植物で、昔は実の中の繊維が綿の代わりに用いられた。だが、沙沙貴神社の由緒書きには、少彦名神が乗ってきた船は小豆に似たササゲ豆の鞘だったので、そこからササキ神社となったと記されている。少彦名神を乗せた小指ほどの小さな船の名前が天之羅摩船(あめのかがみのふね)といい、向かって左側の門に書かれている。

 

少彦名神が石の神というだけあって、境内には名のついた石が多い。

まず、賽銭箱の前にあるのが、願かけ石だ。ロープが通され、まるで分銅のような形をしており、「静かに持ってみてください、さすってみてください」と書かれている。持ってみると、4~5キロほどの重さだ。

 

中を見ると、高さが3mほどの大きな石が立っている。磐境(いわさか)と呼ばれる石で、神が降臨する磐座(いわくら)という意味のようだ。その前には石でできた大きな管玉と丸玉と勾玉(まがたま)が、一本のロープでつながれて置いてある。

 

本殿の中庭を格子の隙間からのぞくと、1mほどの細長い石が10cmほど地面から露出している。またげ石といい、案内には男女が祈祷後に3回またぐと、子宝が授かると記されている。横に、「ご祈祷料 金壱萬円以上」とわかりやすい。

 

子宝を授かる前に、まず相手を探さなければという向きには、楼門の外に陰陽石がある。似ているかといえば、ちっとも似ていない男石と女石がある。片方からもう片方へ、目をつむってたどり着くことができれば、縁結びの願いがかなうと書かれている。こちらは無料。

 

本殿にある祭神をみると、第一座は少彦名神だが、第二座の大毘古神(おおひこかみ)は沙沙貴山君(ささきやまのきみ)の祖神となっている。第三座が仁徳天皇で、「おおささきのすめらみこと」と読み仮名がふられている。第四座が宇多天皇とその子、敦実親王で、宇多源氏の祖神と書かれている。

 

狭々城山君とは奈良や平安時代の蒲生郡と神崎郡の大領であり、もともと祀っていたのは大毘古神の方であった。大毘古神は崇神天皇(10)の叔父にあたり、四道将軍の一人で、北陸方面が担当である。

 

記紀に沙沙貴山君の名が登場するのは、雄略天皇(21)の即位前である。雄略天皇は皇位を継承するために、可能性のある叔父や甥を次々と殺していく。最後に残ったのが、履中天皇(17)の息子、市辺押磐皇子(いちのべおしはのみこ)である。古事記では、この地にいた狭々城山君韓帒(ささきのやまきみからふくろ)が市辺押磐皇子を来田綿(くたわた)の蚊屋野へ猪鹿狩りに誘い出したという。雄略天皇は「猪がいた」と叫んで、市辺押磐皇子を射殺し、遺体は飼い葉桶に入れ、埋めてしまった。

 

市辺押磐皇子の子、億計王(おけおう)と弘計王(おけおう)は播磨に逃げた。その後、雄略天皇は124才で亡くなり、後を継いだ清寧天皇(22)には子供がなかった。清寧天皇の後、播磨に潜伏していた兄弟が迎えられ、顕宗天皇(23)と仁賢天皇(24)となった。兄弟は父の遺骸を探し出し、埋葬した。謀殺に荷担した狭々城山君韓帒の一族は罰せられ、遺骸発見に功績のあった兄の狭々城山君倭帒(やまとふくろ)と妹の一族は残った。

 

雄略天皇の頃にこの地の豪族であった狭々城山君も、大昔からこの地にいたわけではない。仁徳天皇(16)の頃、天皇や皇后の名前をつけた皇室所有の農民や特殊な技術を身につけた人々がいた。御名代(みなしろ)と呼ばれる部民である。中でも仁徳天皇の「おおさざき」に因んだ雀部(ささきべ)は、市辺押磐皇子にとって特別な存在であった可能性がある。皇子を誘い出すのに、狭々城山君韓帒が使われた理由が、そこにあると考えられるからだ。雀部の一部がこの地に移住し、狭々城山君となり、沙沙貴神社を創建したといわれている。それが祭神の第三座に、仁徳天皇の名前がある由縁だ。

 

祭神の第一座から第三座までを想像すると、沙沙貴神社を氏神とした氏族は、第一に大王家を支えた氏族であり、第二に大王家につながる血筋の氏族であり、第三に仁徳天皇の部民であった氏族ということになる。

 

市辺押磐皇子を埋葬したとされる陵墓は八日市の近くの市辺にあり、今は宮内庁の管轄になっている。だが、その陵墓は横穴式石室を持つ6世紀の古墳で、市辺押磐皇子の時代のものではらしい。皇子が亡くなった蚊屋野は愛荘町の蚊屋野ではないかという説もある。いや、雪野山の先だ、日野の辺りだと諸説あるが、いずれにしても、後世、帰化人が住んだ所に近い。そこは古くからの豪族の住む土地からは遠く、雄略天皇の頃にはまだ猪や鹿の住む場所だった。

 

参考文献

1)畑中誠治他:滋賀県の歴史、山川出版社、1997

2)滋賀県歴史散歩編集委員会:滋賀県の歴史散歩(下)、山川出版社、2008