第155弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 七つ割り平四つ目2010年05月27日 03時14分44秒




第155弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 七つ割り平四つ目

 

今回も、沙沙貴神社の話が続く。

 

表参道に回ると、大きな鳥居がある。鳥居には源頼朝が書いた「佐佐木大明神」の扁額が掲げられている。鳥居をくぐると、写真のような楼門が見えてくる。

 

平安時代の様式を模した江戸中期(1747)の作で、一階の華奢な造りとは不釣り合いなほど大きな葭葺(あしぶき)の屋根が、印象に残る。扁額は沙沙貴神社」と書かれた有栖川熾仁(たるひと)親王の御真筆である。この写真でもう一つ印象的なのが、左右の真っ白な提灯に鮮やかに描かれた紋だ。

 

正式には「七つ割り平四つ目」紋という。四角形の各辺を七等分した升目を塗りつぶして描くので七つ割り。布をくくって染め残しの部分を作るくくり染めを形象化した紋だが、縦にくくり目が四つ並んでいるので、平四つ目と名がつく。正倉院の御物の中にもあるというこの紋は、鎌倉時代には衣服の文様として流行し、家紋にも使われるようになった。源平盛衰記には、宇治川の戦いで先陣の功を上げた佐佐木四郎高綱の目結い紋の直垂(ひたたれ)を着た姿が、凛々しく描かれている。門の右手の写真の外に、この紋と「近江源氏佐佐木発祥之地」と書かれた石碑があり、目結い紋は宇多源氏およびその支流である近江源氏佐々木氏の代表家紋である。

 

源の名は在原や平と同じように、皇族が臣籍に降下する際に名乗る姓の一つである。嵯峨天皇(52)の嵯峨源氏に始まり、源頼朝や足利尊氏につながる武家源氏の名門清和源氏の他、宇多源氏、村上源氏など21代の天皇にある。宇多源氏の中では敦実(あつみ)親王の系列が最も栄え、親王の子の雅信の代で源姓を賜り、宇多源氏の祖となった。その後、孫に近江の守護代となった者がいて、そのまた孫に佐々木庄の下司職となった者がいて、この地に住んで佐々木の姓を名乗ったという。

 

ところで、この地には先に古代の大領をつとめていた狭々城氏がいたはずだ。

 

一ノ谷の戦いで平通盛の首級を挙げた佐々木成綱・俊綱親子が、鎌倉幕府を開いた源頼朝に恩賞を願い出た。この佐々木は、狭々城山君の方の佐々木であった。頼朝の返事は冷たかった。恩賞はなく、守護職佐々木定綱の指揮下における知行地安堵の沙汰であった。それは、狭々城の佐々木氏は平治の乱以来、平家方であり、源氏についたのも平家が都落ちしてからという理由だった。

 

先ほどの鳥居でみた源頼朝直筆の「佐佐木大明神」の扁額の裏には正六位上源朝臣定綱とあり、頼朝が定綱のために書いた扁額であることが分かる。これほどまでに頼朝が定綱に肩入れするのには訳があった。

 

定綱の父の秀義は平治の乱で頼朝の父の義朝方につき、戦いに敗れた。秀義は領地の佐々木郷を追われ、20年間、相模に住んでいた。秀義は頼朝が伊豆に流されたことを知ると、長男の定綱を頼朝に仕えさせた。1180年、頼朝挙兵の折、頼朝の同勢90騎のうちの5騎は定綱とその兄弟であった。宇治川の戦いの四郎高綱はとりわけ有名だが、佐々木兄弟は常に平家追討の第一線を駆け巡り、秀義は伊賀と伊勢の平氏との合戦で戦死している。

 

鎌倉幕府を開いた頼朝から佐々木定綱は近江守護職に任じられ、再び先祖の地に戻ることができた。定綱が近江源氏佐々木氏の祖であり、「七つ割り平四つ目」紋を定紋に定めた。兄弟は、四国、越後、中国、九州など、15国の守護に任じられた。

 

ここに至って、古代の大領家、狭々城氏は吸収合併される形で同化し、ある者は新しい佐々木氏に仕え、ある者は沙沙貴神社の神官になった。狭々城氏が氏神としていた沙沙貴神社も共同の氏神となり、狭々城氏が一緒に祀っていた狭々城山君韓国は祭神から除かれ、代わりに宇多源氏の祖である宇多天皇と敦実親王が新たに加えられた。その場合でも、宇多天皇は第四座で、ご先祖の天皇と神様を越えるわけにはいかなかった。

 

定綱は延暦寺との領地争いに巻きこまれ、子の定重を失い、自身も一時流罪となるが、恩赦で戻ると再び近江守護職になった。この定重は第150弾で鏡神社の鏡氏の祖となった尚継の父である。定綱の後を継いだのが嫡子広綱だが、間もなく承久の乱が起きた。広綱は後鳥羽上皇側につき、弟の信綱は北条側についた。広綱は敗れて捕らえられたが、父の功に免じて無罪になろうとしたところを、信綱は殺すように北条執権に迫り、広綱は斬首された。まんまと家督を相続した信綱は、京の六角にあった広綱の屋敷には子の泰綱を住まわせ、京極の屋敷には氏信を住まわせた。これが六角氏と京極氏の始まりである。近江はその他、大原家と高島家に分けられたが、佐々木家の嫡流は六角氏が継いだ。

 

ところが、京極氏信のひ孫の京極道誉が、とんでもない大名だった。髪を振り乱して「ばさら大名」と呼ばれ、「かぶく」を通り越して、あくどかった。そうかと思えば、風流も心得えていた。何故か足利尊氏とは馬があい、共に南北朝時代を生き抜いた。足利尊氏が足利幕府を開くと、京極道譽は六角氏に代わって近江守護職に任じられ、佐々木家の大総領となった。また、京極氏は近江北部に加え、出雲、隠岐、飛騨の守護となり、室町幕府の四職(ししき)家の一角をになう幕府の重鎮となった。近江南部のみの分郡守護となった六角氏とは、完全に立場が逆転した。

 

応仁の乱から戦国時代にかけて、京極氏と六角氏は敵味方に分かれたばかりではなく、それぞれの内紛が交錯し、明日の敵味方も分からない入り乱れた戦いが続いた。

 

京極高次は浅井長政とお市の方との間に生まれた三姉妹の次女、於はつを妻とし、「武功よりも血が興した」と陰口を叩かれ、凡庸と言われながらも、後世に「七つ割り平四つ目」紋を残すことができた。

 

一方、六角氏は沙沙貴神社の真向かいにある観音寺山を居城にし、菩提寺を百済寺に近い永源寺に置いていたが、織田信長の近江侵攻によって滅亡した。その際、石塔寺、百済寺、金剛輪寺など、帰化人ゆかりの寺も灰燼に帰した。

 

参考文献

1)徳永真一郎:近江源氏の系譜 佐々木・六角・京極の流れ、創元社、1979

2)高橋賢一:大名家の家紋、秋田書房、1974

3)伊吹町教育委員会編:京極氏の城・町・寺 北近江戦国史、サンライズ出版、2003