第156弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 公礼八幡神社2010年06月04日 22時12分19秒





第156弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 公礼八幡神社

 

 近くにありながら、これほど差のある二つの八幡神社というのも珍しい。

 方や、近江八幡の門前町が栄え、観光客でにぎわい、立派な楼門と社殿の日牟禮(ひむれ)八幡宮である。ロープウェーまで隣接している。方や、八幡小学校の角の小さな道を左折して、「どこだ、どこだ」と探すうちに通り過ぎてしまった公礼(くれ)八幡神社である。

 

 小さな赤い鳥居に気づいて車をバックさせたが、公礼八幡神社には社殿らしいものはない。写真の小さな集会所のような建物の格子戸の奥に、房のついた鈴が垂れているので、そこが社殿ということのようだ。中をのぞくと、燈明の奥に祭壇がある。左の壁には赤い唐人服を着た男性のポスターが吊られている。ポスターには遣唐大使吉士長丹(きしながに)像とある。

 

 吉士長丹が日本書紀に登場するのは、孝徳天皇の白雉(はくち)4年(653)5月のことである。吉士長丹は遣唐使の大使として、副使の吉士駒とともに学問僧121人を連れて唐へ渡った。一緒に船出したもう一艘の遣唐使船は難破し、板一枚で硫黄島の近くの島に流れ着いた5人のうちの1人は竹の筏を作って戻ってきた。吉士長丹は翌年7月、百済と新羅の送使と共に無事に帰朝した。唐では皇帝に拝謁し、多くの文書や宝物をいただいたというので、吉士長丹は小三上から少花下に位が引き上げられ、呉(くれ)という姓と200戸の封を賜ったと書かれている。

 

公礼八幡神社の空き地にある近江八幡観光物産協会の看板をみると、吉士長丹が賜った200戸の封がこの宇津呂の辺りで、吉士長丹が祀られていると記されている。祭神は応神天皇で、公礼は呉で、古くから呉姫綾姫を祀るという由緒から公礼八幡と呼ばれている。巨勢忠久が書いた吉士長丹像の実物は失われ、残っているのは模写だという。

 

日本書紀には雄略天皇の時から天武天皇の時まで、吉士○○や××吉士という名前が40回も出てくる。はじめの頃は、任那に派遣されたり、百済による4県2郡の割譲問題で近江臣毛野の失政を報告したりということで、日鷹(ひだか)吉士や調(つき)吉士が登場する。敏達天皇の6世紀頃には難波館や難波高麗館などの迎賓館の経営に関与し、外国使節との折衝に当たり、海外にも派遣されたことで、難波吉士や吉士の名前が出てくる。そのなかに吉士長丹の記事もある。だが、天武天皇4年の三宅吉士を最後に、吉士の名前は消える。

 

渡来人の研究を続ける加藤謙吉さんは、その間の事情を次のように解説する。

 

まず吉士について、本居宣長が新羅の官位17階のうちの14番目に吉士があり、渡来系の氏族の称だとしているが、加藤謙吉さんは古代朝鮮の族長や首長を意味する言葉で、渡来系氏族の祖先の名前の下につける敬称だという。

 

日本書紀には全部で19の吉士が出てくるが、それらは草香部吉士と吉士と三宅吉士が中核となる難波吉士系と、日鷹吉士が中核となる紀氏や坂本氏と関係の深い吉士の二つに分けられるという。

 

難波吉士は難波で活躍した吉士集団の総称で、中核をなす草香部吉士は南河内にいて屯倉の管理に携わっていたが、対外的な執務のために難波に住むようになった。日本の古代からの名族である阿部氏に率いられ、大嘗会で吉志舞を奏し、やがて阿部氏と同じ大彦命を祖先と称するようになった。

 

一方、日鷹吉士は5世紀中頃から6世紀初めにかけて朝鮮半島に派遣された軍事氏族である紀氏に属し、紀伊に住んでいた。仁徳天皇が難波の堀江を開削し、難波津と淀川と大和川が直接結ばれた6世紀の前後に、日鷹吉士の一部が難波に移動した。

 

ある時から難波には二つの系統の吉士がいたが、難波吉士は任那問題の専門0家として活躍した。ところが、531年に金官伽耶が新羅に降伏したにもかかわらず、575年に金官伽耶からの貢ぎ物である「任那の調」を難波吉士が新羅に督促している。新羅が6世紀後半の倭との関係を維持するために、金官伽耶からの貢ぎ物と称して、新羅が代わりに送っていたと、加藤謙吉さんは考えている。「任那の調」が滞り、その交渉に難波吉士があたっていたというのだ。やがてそれもなくなると、代わりに新羅の王族を人質にとる政策へと転換する。武烈王となる前の金春秋が1年あまり日本に滞在したのもそれだという。

 

そうなると、新羅との交渉の窓口となっていた難波吉士の活躍の場を失った。同じような任務の史(ふみひと)は王権直属の職掌集団として70氏余りが残ったのに対して、古い豪族の支配から脱却し得なかった吉士は外交の場から姿を消した。

 

天武天皇4年を最後に吉士の名前は消える。それは、難波吉士の結束が弱まり、難波吉士を構成していた吉士が天武朝の改賜姓政策によって姓氏を変えたからだという。8世紀に難波地区の東生、西成両郡の郡領をつとめた三宅忌付(いみつき)や日下部忌付は、三宅吉士と草香部吉士の末裔だと推測している。

 

新撰姓氏録には、大彦命を祖とする摂津国の皇別に吉志、三宅人(ひと)があり、河内国の皇別に日下連、難波忌付、難波がある。これも吉士の末裔だという。皇別といえば神武天皇以来の天皇から別れた氏族を自称しているわけだが、聞いてみると、ずいぶんこじつけた話になっている。加藤謙吉さんは、朝鮮風の戦闘歌舞である吉志舞を奏する吉士は朝鮮半島出身であり、中でも任那問題を担当したのは伽耶出身だからと考えている。だが、呉氏の場合は未定雑姓の右京に「百済国の人、徳卒呉伎側の後なり」とあるから、百済系だとする説もある。

 

いずれにしても、帰化人である吉士長丹を祀る公礼八幡神社は地元では「くれの宮さん」で親しまれている、ここには夏の初めに「足洗い」のお祭りがあり、祠の片隅にある湧き水に足を浸すと、冬にシモヤケにならないそうだ。吉士長丹がシモヤケに悩まされる織り子たちに教えたとされる。

方や、日牟禮八幡宮の左義長祭りには織田信長が飛び入りで参加し、豪華な飾り付けの山車までついている。方や、公礼八幡神社のシモヤケの祭りでは、シモヤケだけに足元にも及ばない。

 

参考文献

1)加藤謙吉:吉士と西漢氏 渡来氏族の実像、白水社、2001

2)朴鐘鳴:滋賀のなかの朝鮮、明石書店、2003