第157弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 オンドル遺構2010年06月19日 18時08分28秒




第157弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 オンドル遺構

 

オンドルとは床下に煙道を設け、燃焼した空気を通して室内を温める床暖房のやり方だ。古くから朝鮮半島や中国東北部で普及し、本来、日本にはないものだ。ないはずのオンドルの遺構が大津市にあるというので、行ってみた。

 

場所は地図の赤丸印、大津市歴史博物館にある。三井寺の山門を出て、大津商業高校野球部のかけ声が聞こえる方へ歩いて行くと、博物館に向かう坂の擁壁の下に、屋根付きで保存されていた。

 

写真がオンドルの遺構である。手前からみると、煙道が逆の「く」の字に屈曲している。奥の方が焚き口で、幅50cm、高さ15cmに石で囲んである。その手前が燃焼室で、70cm80cmの四方ほどの広さがあったが、今は30cm四方が残るだけとなっている。全長は5.2m。煙が抜ける手前の方が40cmほど高い。床面には粘土が塗られ、中央には支脚となる石があり、そこで炊事もしていたらしい。

 

このオンドル遺構は、はじめからこの場所にあったわけではない。

京阪石山坂本線沿いの皇子が丘から穴太を経て終点の坂本までの数Kmの間には、6世紀中頃から約1世紀の間の群集墳や集落遺跡が多い。群集墳は現存するだけでも、800基を越える後期古墳が確認されている。

 

この辺りの群集墳には他の地域にはみられない特徴があるという。通常の石室の内部は石材が垂直に積み上げられているのに対して、この辺りでは上に行くほど内側にせり出し、ドーム状に狭くなり、天井に1、2個の大きな石がかぶさった構造になっている。副葬品として、カマド、カマ、コシキ、ナベが一緒になった炊飯器のミニチュア土器が、ほとんどの古墳の玄門近くにあるというのも珍しい。その写真は「のむけはえぐすり」の151弾に掲載した。その上、通常は複数の追葬があるのだが、ここでは家族単位の一組だけの埋葬が多いといわれている。

 

ここから北に3,4kmほど離れた唐崎駅の近く、比叡山の山麓に穴太の住居遺跡がある。穴太遺跡には6世紀中頃から7世紀前半にかけての住居跡の遺構が4面、重なって存在している。一番古い6世紀中頃の遺構面の建物はすべて掘立柱建物だが、6世紀後半になると周囲に土壁をもつ大壁造りの建物や礎石をもつ建物が出現し、7世紀前半まで続いている。

 

博物館の中に、渡来人の村と題された推定復元家屋の模型の写真があった。正方形や長方形の家屋で、屋根は草で葺かれ、風で飛ばないようにしっかりと木で固定されている。大きな長方形の家屋の壁は土壁だが、小さな正方形の家屋は板で覆われている。どちらも、地面に直接、柱を立てた掘立柱建物を再現している。

 

このような掘立柱建物が穴太遺跡には40棟ほどあったという。一辺が8mもある大型のもので、大半が大壁造りで、屋根は草で葺かれていた。礎石があるものもあれば、土台が築かれていたものもあった。集落全体が4~5mの溝とその内側に築かれた板塀で囲まれ、建物の間には桃やカリンが植えられていたことまで分かっている。

 

穴太遺跡には竪穴式住居はなかったようだ。

竪穴式住居は、地面を円形や方形に7080cm掘り、窪地に柱を立てて家の骨組みを作り、草で屋根を葺いた建物だ。近江における朝鮮半島からの渡来人の定住はすでに弥生時代前期末から、野洲市や近江八幡市辺りを中心に始まり、5世紀になると一挙に広がったといわれている。そのような古い住居遺跡には竪穴式住居があるのが普通で、竪穴式住居のない穴太遺跡を築いた帰化人は、帰化人の中でも比較的新参の方だというわけだ

 

オンドルの遺構は、穴太遺跡からさらに西へ約1Km離れた住居跡にあった。竪穴式住居の地べたの上に床暖式のオンドルがあるはずはないから、当然、堀立柱建物だったということになり、時代は新しく、同時に出土した須恵器によって7世紀の初めであることが確認されている。

 

近江にはオンドルに似た遺跡がほかにもある。鬼室福信が住んでいた辺りの蒲生郡日野町の寺尻野田道遺跡では、50m四方の範囲に竪穴式住居が6棟と、総柱の掘立柱の倉庫1棟がみつかっている。そのなかの1棟に、L字型に屈曲して、壁際に沿って作られた煮炊きをかねた壁暖房のような設備がある。こういう形はオンドルというよりは、朝鮮北部の「カン」と呼ばれる構造に近く、朝鮮半島の平安南道や慶州の月城遺跡にもあるという。

 

このような室内暖房の形式の違いは、出身地による違いを反映しているとみられている。

 

8世紀頃の文献によれば、現代の大津市北の郊外辺りは大友郷、錦織郷と呼ばれ、志賀漢人(しがのあやひと)と総称される穴太村主(すぐり)、志賀忌付(いみつき)、大友村主、錦織村主などの帰化人たちが住んでいたという。いずれも後漢の献帝を始祖とすることから、倭漢(やまとあや)氏の系列で、百済系と考えられる氏族だ。では、百済のオンドルはどのようだったかというと、百済の終焉の地、扶蘇城内にあったオンドルは壁近くに作られ、しかも屈曲していて、両方の特徴を兼ね備えているという。だから、このオンドル遺構をもって百済系だとは断定できないということらしい。

 

オンドルは日本では間もなく、みられなくなる。それは、最寒期の平均温度がソウルではマイナス4.9度であるのに対して、滋賀県では1.9度で、オンドルを作るほど寒くはなかったからという理由のようだ。

 

参考文献

1)丸山竜平:オンドルをもつ家、大塚初重ほか編:考古学による日本歴史15 家族と住まい、雄山閣、1996

2)畑中誠治ほか:滋賀県の歴史、山川出版社、1997

3)大橋信彦ほか編:新・史跡でつづる古代の近江、ミネルヴァ書房、2005