第158弾 のむけはえぐすり 広開土王陵碑文 李進煕教授2010年07月10日 22時41分50秒



第158弾  のむけはえぐすり

広開土王陵碑文 李進煕教授

 

 2010年度のコリアンカルチャーサロンの第3回講演が、622日に横浜駅西口の韓国会館で行われた。講師は李進煕(イジンヒ)和光大学名誉教授である。演題は「朝鮮通信使のみち」であったが、李教授については広開土王陵碑文「すりかえ説」抜きには語れない。

 

李教授は1929年韓国の慶州南道に生まれ、昭和21年(1946)に来日した。1957年に明治大学大学院を卒業後、明治大学講師、雑誌「季刊三千里」の編集長、和光大学教授を経て、現職にある。

 

この間、1972年に雑誌「思想」に「広開土王陵碑文の謎」を発表し、明治16年(1883)に酒匂景信が持ち帰った碑文の双鉤本(そうこうほん)はすりかえられたもので、その改ざんを隠すために日本の参謀本部は碑文に数回に渡って石灰を塗って改ざんしたと主張した。

 

そう思わせる背景もあった。酒匂は参謀本部の中尉であったし、持ち帰った酒匂本は原石拓本ではなく、碑文の文字の外郭をたどったり、原石拓本をトレースしたりして、その上で周辺を墨で塗りつぶした墨本だったからだ。

 

何が問題なのかというと、碑文の一節に、「倭以辛卯年来渡○破百残○○羅以為臣民」という一文がある。読みようによっては、辛卯年(391)に倭が朝鮮半島に渡って百済と新羅を破って臣民としたと読める。辛卯年条と呼ばれるこの記事のほかにも、古代日本が朝鮮半島へ軍事的に進出したと読める所がいくつかあり、明治以降の日本の中国大陸や朝鮮半島への侵略を歴史的に容認させるものとして喧伝された経緯があるからだ。

 

それから40年経って、その後この論争はどうなったのかと思い、最近の碑文研究の動向をたどってみた。

 

まず、戦後、外国人として初めて広開土王陵碑を訪れた東北大学の井上秀雄教授が1984年に発表した紀行文がある。

 

一行の中には当時京都大学教育学部教授だった上田正昭先生もいた。一行は中国の関係者や研究者と共に、中国の吉林省通化地区集安県を訪れた。広開土王陵碑は集安鎮の中心街の高句麗の旧都、国内城から東北に約4km離れた所にあった。周囲は公園となり、新しい碑閣によって風雨から護られていたが、碑閣には碑文の高いところを見るような設備はない。

 

碑は高さ約6mの巨大な四角柱の角礫凝灰岩で作られ、全体としては花崗岩よりも硬質だが、一部に川石の混じった脆弱な部分があって、そこは摩耗が激しく、1962年に中国によって樹脂で修繕された跡があるという。

 

碑文の形式は中国のものとは異なり、文字は隷書風だが、所によって楷書体で書かれ、四面に各行41字、総計で1802字刻まれていた。文字の彫り込みは浅く、碑文全体に海綿状の小さな気孔があり、拓本を採るには困難が予想されたが、日の差し方によっては解読できるところもあった。

 

問題の石灰だが、碑面のかなりの部分に石灰が塗ってあったことは間違いなかった。ただ、それには現地の拓本製造業者の初鵬度が石灰を塗ったという、1914年の関野貞のインタビュー報告もある。石灰がいたる所に残っている中で、石灰で塗りつぶされた上に新たに文字が刻まれた部分は、中国の学者が指摘するには4字あった。それは拓本を鮮明にするために石灰を塗布した際、予め臨書しておいた文字を書き入れたと、井上教授は推測している。

 

問題の「辛卯年来渡○破」の○の部分だが、高いところにあり、下から見上げると碑面の出っ張りが邪魔をし、望遠鏡で見てもはっきり読み取れなかったという。碑文の他の箇所でも、日差しがないと読みにくいとか、はっきり読めるところもあれば、摩耗して読みにくいところもあった。いずれにしても、じっくりと腰を落ち着けた中国側の研究者による調査が待たれると結論づけた。

 

この調査に前後して、19847月の朝日新聞に吉林省文物考古研究所の王健群所長の論文「好太王碑的発現和捶拓」が掲載された。その中で、碑面の石灰は拓工が拓本を採りやすくするために塗布したという、拓本を採った人やその遺族の証言が紹介された。李教授が造字されたと指摘した「辛卯年来渡○破」の○には海という文字があったことが、最近の拓本によって確認されたというのだ。

 

直ちに李教授は反論する。王所長の拓本は偽物で、王所長の学者としての良心を疑うと一刀両断。その論争を受けて、1985年に日本で「四、五世紀の東アジアと日本」というシンポジウムが開かれ、中国側からは王所長ら、日本側からは上田正昭教授をはじめとした古代史学のそうそうたるメンバーに加えて、李教授も参加した。

 

シンポジウムで王所長は石灰が数カ所に残っているに過ぎず、正確な拓本であると主張し、李教授は広範囲に石灰が残っていると反論した。李教授が言うには、碑を見ていない自分が石灰は残っているといい、碑を実際に調査した王所長はないといったという。李教授は問題意識がなければ見えるものも見えないと一蹴した。

 

その6ヶ月後、李教授を含めてシンポジウムの出席者が現地入りして調査した。そこでも、調査団としての明確な結論は出せなかった。中国側の詳細な調査結果に期待するという結論だった。

 

その後も中国で新しい拓本がみつかったという報道があるたびに、その拓本の史料的価値そのものを問題にした李教授の激烈な批判が繰り返された。ある時期、拓本を用いた研究に閉塞感が漂っていた印象がある。

 

今なら精緻な写真撮影も可能だし、コンピューター画像処理を駆使した研究もできるはずだ。どの調査隊も中国側の研究のそこに期待しているのは、人為的な拓本を介した碑文研究では限界があるからだ。碑文の中の不明な部分は不明な部分として、明らかな部分から全体を見渡した研究で、もっと自由にものが言いたいからだろう。不明な部分もそれぞれの立場から、私はこう読む、いいや私はこうだという議論が聞けたら、面白い。

 

参考文献

1)浜田耕策:好太王碑が語る高句麗と倭・百済の激戦、歴史読本、2912)、280-2891984

2)李進煕:渡来文化のうねり 古代の朝鮮と日本、青丘文化社、2006

3)寺田隆信、井上秀雄:好太王碑探訪記、1985,日本放送出版協会

4)小林惠子:高句麗広開土王碑文の謎、歴史と旅、44-511996



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