第159弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 三井寺2010年07月29日 22時04分55秒






第159弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 三井寺

 

 三井寺の金堂の横を歩くと、時折、ボコッボコンという音が聞こえて来る。檜皮葺の閼迦井屋(あかいや)と呼ばれる小さな建物の中からだ。

 

 閼迦井屋は慶長5年(1600)に金堂と共に北政所によって建てられ、正面の軒下には左甚五郎の作と伝わる竜の彫り物がある。

 

 薄暗い中をのぞくと、拳ほどの大きさの気泡が石の間から湧き出ている。写真はその湧き水の井戸で、弥勒菩薩の仏前に供養する水を汲むための閼迦井となっている。不思議な音の正体はこれだった。

 

この湧き水は、天智天皇(38)、天武天皇(40)、持統天皇(41)の産湯に使われたとされ、御井と呼ばれ、三井寺の名の由来となった。

 

 寺伝によれば、三井寺は弘文元年(672)に起きた壬申の乱で大海人皇子に敗れ、山前で自害した大友皇子のゆかりの寺である。大友皇子が天皇に即位したかどうか、長年にわたる論争があったが、明治8年に明治政府によって追謚(ついし、謚:おくりな)され、弘文天皇(39)として歴代天皇に名を連ねるようになった。その時に三井寺のすぐ北にあった長等山前陵を弘文天皇陵としたのだが、かなり怪しい。

 

 乱が終わって6727月に、大友村主氏の寺が建てられた。朱鳥元年(686)に、大友皇子の子である大友与太王が父の菩提を弔うために、自らの「荘園城邑」をなげうってこの寺の建立を願い出た。天武天皇はその志を称え、園城寺(おんじょうじ)と名付けたという。

 

 いつの頃から園城寺は三井寺と呼ばれるようになった。だが、どの天皇も実際はここで産湯を使うことはなかったはずだ。

 

当時、皇子女のお産がどこで行われていたか、定かではない。ただ、紫式部日記の中に、中宮彰子がお産のために父、藤原道長の屋敷に戻ったと書かれていることや、同じ頃に女性によって書かれた栄花物語の中に、47人の妊婦のうち11人がお産で死亡したとあることから、死の危険が伴うお産が宮殿の中で行われたとは考えにくい。

 

里帰りしてお産をしたとなると、天智天皇と天武天皇の父は舒明天皇で、母は皇極天皇(35)だから、皇極天皇にとっては両親のいる茅渟王の家だが、夫である舒明天皇からすれば兄の家に産屋があったことになる。だから、天智天皇と天武天皇は飛鳥で生まれたはずだ。

 

当時の皇子女の養育は有力な豪族に任せられ、諱(いみな)には養育を担当した氏族に因んだ名前がつけられることが多かった。皇子女には壬生部(みぶべ)と呼ばれる養育のための封土が与えられ、それが皇子女の経済的基盤ともなった。例えば、皇極天皇の諱は宝皇女という。宝という名は、江沼財臣(えぬのたからのおみ)という氏族によって育てられたからだ。江沼は大和国の武市県にあった地名で、今の飛鳥の近くである。

 

持統天皇の父は天智天皇で、母が蘇我石川麻呂の娘の越智姫だから、持統天皇は越智姫の河内国石川の実家で生まれたと考えられる。諱は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)なので、今の四条畷市の辺りに本拠地をもつ氏族に養育されたと考えられる。こちらも三井寺の産湯を使った可能性はない。

 

可能性があるとすれば、弘文天皇だが、弘文天皇の父は天智天皇で、母は宮中に仕えて采女となった伊賀の地方豪族の娘で、伊賀宅子娘(いがのやかこのいらつめ)という。将来、天皇となる皇子の母としては身分が低く、いわゆる卑母であった。大化4年(648)、父が23才の時で、当時、都は難波京にあった。地方豪族の子女であった宅子娘は、伊賀ではなく、難波京のどこかで大友皇子を生んだと考えられる。

 

大友皇子の母の実家である伊賀国造(いがのくにのみやつこ)の家は、間もなく没落した。そのため、早くから大友皇子は現代の大津市にあった大友郷に本拠地をもつ大友氏によって育てられた。

 

当時、大友を名のる氏族は、大友村主氏、西大友村主氏、大友曰佐(おさ)氏、大友史(ふひと)氏、大友桑原氏など有姓の9氏と、無姓の大友氏がひとつ、計10氏あった。この中で、大友皇子の養育に携わったのは、大友村主氏と西大友村主氏だったようだ。大友村主氏は、延暦6年(787)に志賀忌付の姓を賜る時に、後漢の献帝の子孫と記されている。西大友村主氏の本貫は現代の富田林市付近の河内国石川郡大伴(友)村で、新撰姓氏録にはこちらも後漢の高祖皇帝の子孫で、仁徳天皇の時に渡来したと記されている。どちらも後漢の皇帝の子孫と自称しているが、百済系の帰化人である。

 

意外なことに、壬申の乱で大友皇子の側近や近江朝廷軍の指揮官の中に、大友氏の名前はない。もちろん、敗軍の将として処罰された人の中にもない。それどころか、大友皇子と正妃十市皇女との間に生まれた葛野王は、天武朝の政府内でもそれなりの地位にとどまっている。大友氏の娘との間に生まれた大友与太王も残った。

 

ということは、大友村主氏は大友皇子軍に積極的に与しなかったのかも知れない。壬申の乱では、古くからの帰化系氏族は大海人皇子の側についたといわれる。それは、近江朝で重用された白村江以降の百済人に対する反感があったからだという人もいる。あるいは、志賀漢人と総称される百済系の帰化人たちが大津市北郊を本拠地とするようになったのが、滋賀郡に勢力を持つ和迩(わに)氏が編貫を主導したからだとか、蘇我氏が編貫したからだとかいわれており、大友村主氏も近隣の志賀漢人や本貫である河内の百済系氏族と旗幟を同じくした可能性がある。

 

乱の後も存続した大友村主氏と大友与太王ではあったが、大友皇子の経済的基盤である壬生部をそのまま受け継ぐわけにはいかなかっただろう。それが「荘園城邑」を投げ出して園城寺を建立したもうひとつの動機であり、その問題があったからこそ天武天皇が園城寺と名付けたと考えた。

 

参考文献

1)星野良作:壬申の乱研究の展開、吉川弘文館、1997

2)遠山美都男:壬申の乱 天皇誕生の神話と史実、中央新書、1996

 


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