第160弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 小槻大社2010年08月07日 01時53分00秒




第160弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 小槻大社

 

 檜林の中からバサッと何かが落ちる音がして振り返ると、檜の幹に上って、檜皮(ひわだ)を剥いでいる人がいる。周りの檜はすっかり赤い木肌を曝し、剥がれた檜皮は本殿横の広場に並べて積まれている。

 

小槻(おづき)大社の本殿は、写真のように一間社流造の檜皮葺の社殿である。明治の社格制定でこそ村社だが、古くは延喜式内社であり、室町時代には正1位を賜り、大社と呼ぶのに相応しい神社であった。

 

社歴を見ると、祭神は於知別命(おちわけのみこと)と大己貴命(おおむなちのみこと)となっている。於知別命は垂仁天皇の皇子で、小月山君の祖であり、日本武尊の祖父にあたるという。

 

古事記に記された小月山公は、古代に旧栗太郡を支配した小槻山公と同族だろう。新撰姓氏録には、小槻山公は左京の皇別で、小槻臣を称するようになったとある。その後、小槻氏は現代に至るまで連綿として続く。

 

「貞観15年(873)に近江国栗太郡の正六位、上行左少史で、算博士を兼ねる小槻山公今雄は・・・京都四条三坊に居を移した」と三代実録にあるのが、小槻氏が官人として歴史書に現れる最初である。

 

平安時代に官吏を教育する大学寮があった。大学寮は本科と小学科に分かれ、本科には400人ほど身分の高い貴族の子弟が選ばれ、小学科には身分の低い地方豪族の子弟が入学した。小学科には租税会計の計算をする算道と儒教経典の原典を筆記する書道があった。算道には教授である算博士と、学生である算生が30人ほどいて、円周率や球の体積計算、級数などの高等数学が教えられていた。卒業すると主計寮や主税寮の算師として採用され、あるいは地方の下級国司として租税会計事務などを担当した。先ほどの小槻山公今雄は算博士となり、京都に住むようになったというのだ。小槻氏は算術の技能を世襲し、技術系官人として官界の底辺を支配するようになった。

 

やがて算道は本科に吸収されてしまうが、小槻山公今雄は左少史も兼務していた。当時、政務を行う太政官には少納言局、左弁官局、右弁官局があった。左弁官局には、長官である弁の下に左大史、左少史、史生がいて、さらに実務を行う下級官吏がいた。弁には藤原氏のような身分の高い貴族がなるが、史には小槻氏のような身分の低い卑姓の氏族の出身者がなった。史は公卿にはなれないが、左大史は実務官僚のトップであり、左少史といえばそのすぐ下である。

 

平安時代も中期を過ぎると、宮廷の政治は形式化し、何事にも先例に従うことが至上とされた。太政官内にある過去の記録が重視され、記録を管理する史の存在感は増した。その結果、史の中でも有力な小槻氏は五位に昇進し、大夫史を独占するようになった。平安時代の末期には、この大夫史が官務と呼ばれるようになった。

 

小槻氏は太政官文庫にある公的な官文書を管理していた。たまには禁帯出の公文書を家に持ち出すこともあったかも知れない、あるいは返すのを忘れたかも知れない。官文書は破損や欠落が多くなり、小槻家にある官務文書の方が充実してくる。そのうち、宮廷の火事で官文書が失われると、小槻家にある私的な文庫の独壇場になった。

 

そうなると、小槻家にある官務文庫を守るためと称して、非常の際の警備に使われる費用や修理改築の費用などに、公費が使われるようになった。意に沿う結論ありきで、公文書の故意の紛失や牽強付会もあったかも知れない。少なくとも、周りはそう期待する。いつの間に、近江の雄琴、苗鹿の旧領に加えて、新たな私領が増えていった。その上、主殿寮や太政官として管理する所領の権益も所持するようになった。

 

鎌倉時代に官局を支配した小槻氏ではあったが、後白河院と源頼朝の確執に巻きこまれ、壬生(みぶ)家と大宮家の二流に分かれた。戦国時代に大宮家は断絶し、壬生家が残った。江戸時代の宮廷では、局務家の中原氏、出納家の平田氏、官務家の壬生家は地下三方と呼ばれ、中でも壬生家は身分が低く昇殿が許されない地下官人の筆頭であった。明治になると、壬生家は男爵に叙せられた。こうして、律令以前から近江の名族であった小槻氏は、現代まで存続した。

 

ここでもう一度、小槻山公の小槻神社の話に戻る。

 

小槻大社のある一帯には小槻大社古墳群がある。付近には17基の円墳があるといい、そのうちのひとつは5世紀後半から6世紀前半の古墳と分かっている。行ってみると、石室も天井も周囲の壁も取り払われて、何もない。被葬者は不明だが、小槻山公一族の墓だろう。

 

この小槻大社古墳群から北東へ向かって2km以内には、大塚越古墳や椿山古墳のような前期の前方後円墳もあれば、和田古墳群、新開古墳群といった後期の古墳群がある。とにかく、古墳が多い。

 

その中で、新開古墳からは、鉄刀、鉄剣、鉄族、4領の甲冑、鉄鋌などが出土している。甲冑は栗東歴史民族博物館に展示されていたが、私が韓国の大伽耶博物館で見た短甲によく似ている。蛇行型鉄器と呼ばれる鞍の後ろに装着する鉄器もあったが、これも大伽耶博物館の騎馬兵のレプリカの鞍の後ろについているのを見た。和田古墳群の中には、帰化人の墓とされる竪穴系横口式古墳がある。小槻大社古墳群からは朝鮮半島でみられる牛角の形をした角杯が出土した。

 

だからといって、この辺りの古墳の被葬者が帰化人であったとは即断はできない。出土品は輸入品である可能性もあり、日本で作られたものかも知れないからだ。だが、律令時代に、三角形の田畑の面積から秋の収穫量を算出するなどという計算は、日本産ではないだろう。朝鮮半島経由の独自ルートがあったのかも知れないが、自ら持ってきた可能性も考えた。

 

参考文献

1)橋本義彦:平安貴族社会の研究、吉川弘文館、1976

2)大橋信弥、小笠原好彦編:新・史跡でつづる古代の近江、ミネルヴァ書房、2005

3)林家辰三郎他編:新修 大津市史 古代、大津市役所、1978