eccoのシューズ2010年09月04日 18時38分12秒

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先週表参道に行きました

地下鉄表参道駅で見かけた電飾・・・

そうです、ここにはeccoの青山店があるのです
(残念ながら今回は寄れませんでしたが)


マスターズでフレッド・カプルスが裸足でゴルフシューズを履いて
何かと取り上げられたデンマークのメーカーです

ただ日本で買うと高いので次回ケルンのショーにでも行った後
コペンハーゲンのお客さんを訪問してついでに買ってこようか
・・・等と考えておりましたらLA近郊のデザートヒル・プレミアム
アウトレットにeccoのお店があったので買ってきました

・・・実に履きやすい。履いてすぐに馴染む・・・これは昔のリーボックの
シューズと同じような感じです

僕がもうちょっと真剣にゴルフをやっていたらすかさずゴルフシューズも
買って”裸足でプレイ”して優勝するのですが・・・この案は
監督譲りましょう(^_^)

>監督 いかがでしょう?


第161弾 のむけはえぐすり 帰化人と渡来人2010年09月11日 05時22分58秒



第161弾  のむけはえぐすり

帰化人と渡来人

 

古代に朝鮮半島から日本に移住して来た人々を、私は帰化人と呼んでいる。当初、私が想定していたのは、二上山を望む近鉄南大阪線沿いの大阪や奈良の古墳群や遺跡の周辺に住んでいた人々であった。そこにいた帰化人は当時の日本に新しい文化や芸術を伝え、古代国家の形成に関与し、日本人と同化していった人々であった。

 

その後、思いつくまま帰化人についての稿を重ねているうちに、帰化人の足跡は日本の至る所にあり、その数も想像以上に多いことが分かってきた。ところが、参考文献を読んでいると、そのような人たちを帰化人と呼ぶ研究者と、渡来人と呼ぶ研究者がいることに気がついた。そしていつの頃からか、帰化人という言葉には民族差別の意味合いがあるということで、渡来人という言葉に改められたということも分かった。

 

どういう経緯があったのか知りたいと思い、まず、私が持っている古代の帰化人に関する著書を調べ、帰化人と表記されているか、渡来人と表記されているかを表にしてみた。出身校と教育歴もあげたのは、教育における師弟関係の影響が無視できないと考えたからだ。

 

表を見ると、昭和40年(1960)代の古い著書は帰化人だが、昭和501970)年代以降は渡来人になっているのが分かる。最近では、東京大学の関晃教授の流れをくむ平野邦雄教授のように、帰化人とする研究者も現れた。専門家の間でも、古代に朝鮮半島から移住してきた人々を、渡来人と呼ぶか、帰化人と呼ぶか、未だに一定していないようだ。

 

戦後の帰化人研究の出発点は関教授の著書「帰化人」だといわれているが、帰化人という表現が不適切のように言われ始めたのは、上田正昭教授あたりからだ。上田教授の1965年の著書に、「帰化人」という本がある。だが、表の一番下の上田教授の近刊では、渡来人という言葉が使われている。その転換点になったのは昭和50年前後に上田教授、金達寿さん、李進煕教授、司馬遼太郎さんたちが集まって開かれた座談会での話が、京都で刊行された季刊雑誌「日本のなかの朝鮮文化」に連載された頃だ。

 

そもそも帰化という言葉が歴史上に出てくるのは日本書紀で、「おのずからにまうく」と読ませている。天皇の徳に感じて帰属してくる行為とされ、中国の周りの国々は全て夷狄と考える中華思想からの発想で、中国皇帝のもとに「欽化内帰」するという言葉に起源があるという。

 

だから、帰化を目的とする人が日本に来ると、天皇は慈愛を示さなくてならないという考えがあって、当時の律令では取り扱いが定められていた。まず、地方官である国司や郡司が衣食を保証し、中央に報告することが義務づけられていた。その後、定住すべき地が示され、戸籍に載せられ、口分田も支給され、税や期限付きとはいえ賦役も免除されることになっていた(田中200514P)。実態はともかく、少なくとも文面上ではそうなっていた。

 

その中で、上田教授が帰化人という言葉に疑問を持った理由は二つある。一つは、大宝令や養老令に書かれた「籍貫に付す」、すなわち戸籍に載せるという言葉である。帰化すべき国家が日本では誕生していない段階で、あるいは戸籍が作成される以前の段階で、律令が規定するような帰化人が存在するわけはないというのだ(上田200951P)。

 

もう一つは、朝鮮諸国が日本への隷属的な朝貢国であるという蕃国思想に基づく差別観を、律令政府が強めたことである。そのため、天武持統朝以降にやって来た新羅人は、関東へ、さらには陸奥へと追いやられ、やがては帰化そのものが拒否され、入国も禁止されるようになった。820年には、遠江や駿河に移住させられた新羅人たちが叛乱を起こしたのも、その差別観に根ざしたものだというのだ(上田1965174P)。

 

その時の帰化人に対する差別観が、明治以降の朝鮮半島や中国大陸への侵略を正当化する口実になり、民族差別につながったと批判する声が次第に大きくなった。その中で、上田教授は風土記に渡来(わたりきつ)という言葉があり、帰化していない人については渡来と呼ぶ方がよいと提唱した。それを積極的に推進したのは金達寿さんであった。昭和46年には、NHKの教養番組「帰化人-古代日本と朝鮮」にも座談会の形で取り上げられ、やがて教科書からも帰化人という言葉が消え、渡来人という言葉に置き換わっていった。

 

ところが、近年、移動という事実に着目して用いられた渡来人という言葉を、定住を前提とした帰化人に用いるのは相応しくないという意見が出始めた。帰化人という言葉の負のイメージの束縛から離れて、もう一度、見直そうという考えである。

 

そこで、平野教授は古代の帰化の概念を次のように説明する。

「政変・戦乱・飢饉などの遠因はあるであろうが、みずからの意志に従って、自国での政治的、経済的生活を放棄し、安住の地をもとめて他国へ移住し、他国では一定の政治的方針によってこれを受容し、政治上の手つづきを経て、自国民として遇するにいたるまでの一連の行為」(平野20071P

 

稿を進める中で、渡来人と呼ぶには、私にも違和感があった。来航の動機はさまざまだが、七世紀以前に技術・文化・知識を持ってやって来て、政府に仕えた人たち、あるいは各地で定住して土地の名前として残ったような人たちを、単なる渡来した人というのでは、物足りないという思いからだ。

 

その思いは、私が韓国に行って古代の帰化人のふるさとをたずねて、その土地を去らなければならなかった人々の心情に思いを馳せたり、帰化人たちが定住した近江や埼玉の田舎の風景を見て、扇状地の厳しい自然のなかで根付いていった姿を思い浮かべたりするたびに、強くなっていった。

 

そのような私の思いを、平野教授はひとつひとつ丁寧に説明しているように思えるのだ。

 

参考文献

1)荒井秀規:東国の渡来人の実像、歴史読本51(3)、新人物往来社、2006

2)司馬遼太郎、上田正昭、金達寿:日本の渡来文化、中央文庫、1982

3)金達寿:日本古代史と朝鮮、講談社学術文庫、1985

 

 



10万ビュー達成&食べログでも紹介2010年09月18日 18時03分17秒

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フライペンブログも何と10万ビューを達成いたしました

これも”のむけはえぐすり”と”よっちゃんのグルメ日誌”の貢献に
負うところ大であります

ところで一方で食べログでも”キッチン フライペン”が紹介されておりますので
是非御覧ください

http://r.tabelog.com/kanagawa/A1401/A140104/14026598/

参考までに下にページの写真を入れておきます



ホットペッパーのフームーでも紹介されてました2010年09月19日 12時38分44秒

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google等で「関内 フライペン」と入れるとフライペンの地図の
ページが出てくるのですが「以前の常盤町の徳栄ビル6F」
のものが出てきます。

現在のブログではこの情報は削除しているのですが
キャッシュに古い情報が残っている為と思われます。

一旦タイトルの「韓国家庭料理 フライペン」
をクリックしていただき、その上で「カテゴリー」
→「フライペン地図」をクリックしていただけると
今のお店の地図が出てきます。

ところで「食べログ」での紹介ページの話をしたのですが
ググってみるとこんなのもヒットしました

●フームーat ホットペッパー

例によってページの写真を添付します
こちらはクーポン付きで写真も大きなのが載ってるので
取材があったのかな?
いずれにしても是非食べに来て下さい
よろしくお願いいたします





第162弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 日撫神社2010年09月20日 03時12分53秒




第162弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人  日撫神社

 

北陸本線で米原の次の駅が坂田である。米原から坂田、長浜にかけて、古代には坂田郡があった。

 

坂田郡には坂田酒人君と息長(おきなが)君がいて、律令の以前から郡領を支配していた。共に姓(かばね)は、近江の豪族に多い君を称している。君姓の氏族は大王家との関係が深く、従属度が強かったといわれている。

 

北陸道が横山丘陵南部を貫く長浜トンネルの周辺には、昭和30年まで息長村があった。付近にある3世紀前半の住居遺跡には、大掛かりな導水路が築かれ、集落は居住区、墓域、水田区域、祭礼区域に分かれていたという。

 

横山丘陵の南端部から天野川にかけては、古墳時代の前期から後期に至るまで途切れることなく営まれた古墳群がある。かつての地名から息長古墳群と呼ばれ、3世紀前半の前方後方形周溝墓をはじめ、帆立貝形古墳、前方後円墳などとさまざまな形の古墳がある。

 

その中で、米原市役所近江庁舎の奥に連なる丘陵の尾根には、アミタビ古墳、日撫(ひなで)山古墳、顔戸(こうど)山砦1号墳が並んでいる。アミタビとは江戸時代の雨乞い神事に由来する小字名だという。日撫山古墳からは円筒埴輪が採集されたというから、大分古そうだ。この地を支配した息長氏が、いかに古くから強大な権力を持つ豪族であったかということがよく分かる。

 

地図の赤丸印、日撫山古墳の麓に日撫神社がある。今までと違って、地図には琵琶湖の北、湖北地方が見えている。

 

狭い農道を車で走りながら探すうちに、大きな鳥居にたどり着いた。両脇に石灯籠が並ぶ参道を抜けると、写真のような二の鳥居があり、その奥に寛成年間に創建された拝殿がある。拝殿から続く社殿は享保8年(1723)に再建されたというが、分厚い屋根が柔らかな曲線を描いて三重にも連なり、なかなか豪壮な造りだ。

 

由緒書きを見ると、明治14年に郷社に列せられたが、元は延喜式神名帳に記載された歴とした式内社である。創始の年代は分からないが、神祇志料や神社覈録(じんじゃふくろく)という古文書には、山田造(みやつこ)と火撫直(ひなでのあたい)の先祖が祀られていると記されている。どちらも新撰姓氏録では、後漢霊帝の四世の孫である阿智使臣の子孫だとされている。阿智使臣は大和の檜前郡に定住した東漢(やまとあや)の祖で、秦氏と並ぶ有力な帰化人である。応神天皇の時に、子の都加使主(つかのおみ)とともに、党類17県を率いて帰化したというが、実際には百済からの帰化人だといわれている。その子孫だという山田造や火撫直も、百済系の帰化人であることは間違いなさそうだ。

 

さらに由緒書きを読み進むと、この息長の地は息長帯比売命(おきながたらしひめみこ)すなわち神功皇后の先祖が代々住んでいたところなので、神功皇后が朝鮮半島から帰ってきた時にこの地に祠を建て、父の息長宿称王と、国土経営と医薬に功がある少毘古名命(すくなひこなのみこと)を祀ったとある。

 

本殿横の高札には、応神天皇の名前も加えられているが、応神天皇は神功皇后の子だから、あってもおかしくはない。

 

不思議に思うのは、古くからの豪族である息長氏と、百済系帰化人の氏族である山田造や火撫氏が、同じ神社に祀られていることだ。

 

沙沙貴神社や阿自岐神社などがそうだったが、神社に祀られている祭神には、まず創建時に祀られた氏神があって、その後支配者が変わると、新たに支配者となった氏族の氏神が付け加えられたということは、よくある話だった。

 

古くから、坂田郡の長浜付近には坂田酒人氏、南部の天野川流域には息長氏がいて、坂田郡の郡司の大領(長官)と小領(副長官)を独占していた。それが、平安時代になると、大領には穴太村主氏の名が続いている。

 

穴太村主氏は現代の大津市近郊の穴太を本貫とした志賀漢人と呼ばれる百済系の帰化人の氏族だ。新撰姓氏録には、後漢孝献帝の子で、美波夜王の子孫だとある。仁徳天皇の頃に朝鮮半島から渡来してくる人々があまりも多く、それまで定住していた飛鳥の今来郡が手狭になったので、摂津、三河、近江などに移住するものがいた。その中で、近江の湖西に本貫を定めた氏族を志賀漢人と称したと伝えられている。

 

坂田郡で大領になるほどの実力者になった穴太村主氏は、志賀漢人である穴太村主氏の一部がさらに移住してきたと考えられ、そこには墾田の売買があったのではないかと想像している。同じように、穴太村主氏の間隙をぬって、この地を支配するようになったのが山田造や火撫直であって、それが日撫神社に祀られている理由だと考えた。

 

日撫神社は中世には社領六百石を有し、朝妻庄11ケ村の大社として栄えた。いくつもの大伽藍と19の社坊があり、多くの社僧がいた。京極高光が建立した伽藍もあったが、度重なる兵火にみまわれ、最終的には織田信長による比叡山の焼き討ちがあった時に、神官僧侶が自ら焼いてしまったという。

 

そういえば、神社に行くと、シャリリリリーーンと澄んだ鈴の音を聞くことがある。たくさんの鈴がついて、息長鈴という。本場の息長鈴を見ようと、拝殿を探したが、見あたらない。耳を澄ましても、聞こえてくるのはアブラゼミの蝉時雨だが、五月蠅い虫の羽音にはまいった。

 

参考文献

1)伊吹町史編さん委員会編集:伊吹町史 通史編上、1997

2)朴鐘鳴編:志賀のなかの朝鮮、明石書店、2003

3)米原市教育委員会:平成20年度埋蔵文化財活用事業、米原市遺跡リーフレット

 

 



とんQ;新米とソフトシェルクラブ2010年09月23日 20時42分12秒

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今日は100%雨ということで・・・これなら仕事してたほうがましか・・・
などと思っていましたらつくばは奇跡的に雨が降らなくて
一時間だけですがテニスできました

・・・ということでかろうじて欲求不満にはならなくてすんでます

ところで秋ということで新米です

いつものとんQも店頭に俵が。。。


とんテキも終わって”ほっけかつ”が季節商品なんですが・・・
僕は子供の頃北海道でかまぼこ等の材料でほっけがトラックで運ばれていて
道路に落ちていても猫も拾わない・・・という生活をしてたのでいまだ高級品
とは認識できなくて・・・パスです


かわりに”とんQロースカツランチ”


今回は”お好きなサイドメニュー1品 ただ”というのがありまして
メニューをみたら”ソフトシェルクラブ 680円”
”これも大丈夫?”
”はい!”
・・・・ということで食べましたソフトシェル
昔アメリカにいた頃多分初夏くらいだとおもうのですがソフトシェルクラブが
出てくるんですよね
良く食べたので・・・挑戦です


●結論

・・・ビールが欲しい!!!!!!

F-cup第三戦は10/3(日)オークビレッヂゴルフクラブです2010年09月26日 19時27分19秒

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F-cup第三戦は10/3(日)オークビレッヂゴルフクラブです

昨年の第三戦は”千葉バーディークラブ”という”超接待コース”でした
その迫力に負けて監督が馬券受付を作れなかったところです

今回もそれに負けず劣らずの立派なコース

設計はかのデズモンド・ミュアヘッドのリンクスコースです

恒例のバーディークラブでの美女達・・・・

そして今回の本命・・・いつも前半は本命ですが・・・
今回は悲願の完全優勝なるか?


なにせゴルフが忙しくて”のむけはえぐすり”の原稿がおろそかになっている・・・
という噂です

第163弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 息長広姫陵2010年09月28日 02時42分44秒





第163弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人  息長広姫陵

 

写真は、敏達天皇(30)の皇后息長広姫の陵墓指定地、息長陵である。地図のように、日撫神社から北へ約7Kmの所にある。

 

通常、敏達天皇の皇后というと、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)すなわち推古天皇(33)を思い浮かべるが、早く亡くなった広姫の方がいわば先妻である。

 

国道365号線にある息長陵の案内標識を見つけ、集落の狭い道に入る。写真のように、いずこも同じ陵墓指定地の見慣れた風景がある。鳥居があって、外壁があって、鉄の扉があって、参道には玉砂利がひかれ、垣根が整備されている。左に見える小さな屋根のついた宮内庁の案内にも、「一、みだりに域内に立ち入らぬこと、一、魚鳥等を取らぬこと・・・」など、同じ文章が並んでいる。

 

ただ、陵墓指定地としては、私が見た中ではかなり小さい方だ。道路脇から垣根の中をのぞくと、径が67m、高さが2mほどの円墳がある。

 

元禄9年(1696)、隣接する光運寺の本堂改築の際に、家形石槨の蓋と石棺がみつかった。延喜諸陵式という本に、「息長墓、舒明天皇の祖母、名を広姫といい、近江国坂田郡にある」と記されていたので、息長広姫の墓に比定され、その後、現在地に移された。

 

延喜諸陵式に「兆域は東西一町、南北一町で、守戸は三烟」とあるから、本来は四方に100mほどの大きさがあった。それを裏付けるかのように、近年、光運寺の本堂裏の基壇を修理していると、多数の埴輪と墳丘がみつかった。その埴輪の推定年代から、息長陵は5世紀末の古墳であることが分かり、6世紀後半に存在した広姫の陵墓というには、時代が古すぎることが明らかになった。

 

古代の息長氏は、仲哀天皇(14)の皇后である息長帯比売(たらしひめ:神功皇后)から始まって、応神天皇(15)の妃の息長真若中比売(まわかなかひめ)、允恭天皇(19)の皇后の忍坂大中比売(おしさかおおなかつひめ)と、古代の大王家の系譜の中に皇后や妃を出した外戚として頻繁に登場している。

 

だが、応神天皇の母である神功皇后はとても史実とは思えない伝承に包まれ、実在が疑われている。また、継体天皇(26)は応神天皇と息長真若中比売の6世の孫だというが、こちらもかなり怪しげだ。応神天皇も継体天皇もそこで王統が交替したことを匂わせる場面だが、そのような重要な場面に息長氏の名前が出てくるのには、広姫がキーパーソンになっているという説がある。伊吹町史に書かれているのだが、古代における息長氏の実像を伝えているように思えるので紹介する。

 

古事記は天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて「帝皇日継及先代旧辞」を誦習させ、それを元明天皇時代に太安万呂が記載したものだ。天武天皇は壬申の乱によって、甥の弘文天皇から王位を奪って即位した。天武天皇にしてみれば、同じことが起きないようにするために、「万世一系」の大王の系譜を整備し、自らの王統の正当性を主張する必要があった。

 

天武天皇の系譜で一番の弱点は、祖父の押坂彦人皇子のところだ。押坂彦人皇子は敏達天皇の子だが、蘇我馬子の策略によって、皇位に就けなかった。その時、皇位についたのが、敏達天皇の異母妹であり、後妻の推古天皇である。そこで天武天皇は押坂彦人皇子を「皇祖大兄」と呼ばせ、天武の王統直接の始祖として祀り上げることに成功した。次は、押坂彦人皇子の母方、息長広姫の出自である。このままでは、近江の一豪族の娘で終わってしまう。

 

そこで、王朝交替の可能性がささやかれる応神天皇(15)と継体天皇(26)に話を絡める。応神天皇の父は仲哀天皇(14)で、祖父は倭健命である。この仲哀天皇の皇后に、開化天皇(9)のひ孫の息長宿称王の娘ということで、息長帯比売命を配置する。神功皇后である。

 

次は、継体天皇の系譜を、6代さかのぼって応神天皇に結びつけるという荒技に出る。そのために、応神天皇の妃の一人に息長真若中比売(まわかなかひめ)を配置する。この比売の祖父を息長田別王とし、倭健命の何人かいた妃の中の一人から生まれたと、さらに箔をつける。

 

二人の間の息子が、若野毛二股王(わかぬけふたまたおう)という。この王がこともあろうに、母の妹の息長弟比売真若中比売(おとひめまわかなかひめ)を妃に迎え、意富富杼王(おほほどおう)をもうける。そのひ孫が継体天皇で、継体天皇の子が欽明天皇(29)、孫が敏達天皇へと、血統はつながっていく。

 

息長広姫の父は息長真手王(まておう)だが、真手王が息長氏の系譜にどうつながるかは明らかにされてはいない。だがこれまでの話によって、息長氏が古代から大王の系譜に近い存在であることは示されている。そのレーゾン・デートル(存在理由)に対して、息長氏は天武朝において皇親に与えられる最高位の姓(かばね)の真人を賜っている。準皇族の扱いである。

 

奈良時代以降、息長氏は中央に本拠を移した。それほど大王家の外戚として重要な地位にいたのなら、中央政界においてもそれなりの地位にいたはずだが、実際には官人として議政官となった者はいない。息長真人老の従四位上が最高位で、大半は中下級の官人で終わっている。それが、古代における息長系の皇后や妃の存在が虚構とする証拠だという。そういう怪しい話が作られることになったのは、息長広姫がキーパーソンになっていたからだという説だ。

 

それとは別に特記しておきたいのは、神功皇后の母である葛城之高額比売(たかぬかひめ)が、新羅の王子、天日矛の末裔とされていることだ。そこに息長氏と新羅の帰化人との密接な関係が示唆されている。

 

参考文献

1)伊吹町史編さん委員会編集:伊吹町史 通史編上、1997

2)肥後和男編:歴代天皇記、秋田書店、1985