第162弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 日撫神社2010年09月20日 03時12分53秒




第162弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人  日撫神社

 

北陸本線で米原の次の駅が坂田である。米原から坂田、長浜にかけて、古代には坂田郡があった。

 

坂田郡には坂田酒人君と息長(おきなが)君がいて、律令の以前から郡領を支配していた。共に姓(かばね)は、近江の豪族に多い君を称している。君姓の氏族は大王家との関係が深く、従属度が強かったといわれている。

 

北陸道が横山丘陵南部を貫く長浜トンネルの周辺には、昭和30年まで息長村があった。付近にある3世紀前半の住居遺跡には、大掛かりな導水路が築かれ、集落は居住区、墓域、水田区域、祭礼区域に分かれていたという。

 

横山丘陵の南端部から天野川にかけては、古墳時代の前期から後期に至るまで途切れることなく営まれた古墳群がある。かつての地名から息長古墳群と呼ばれ、3世紀前半の前方後方形周溝墓をはじめ、帆立貝形古墳、前方後円墳などとさまざまな形の古墳がある。

 

その中で、米原市役所近江庁舎の奥に連なる丘陵の尾根には、アミタビ古墳、日撫(ひなで)山古墳、顔戸(こうど)山砦1号墳が並んでいる。アミタビとは江戸時代の雨乞い神事に由来する小字名だという。日撫山古墳からは円筒埴輪が採集されたというから、大分古そうだ。この地を支配した息長氏が、いかに古くから強大な権力を持つ豪族であったかということがよく分かる。

 

地図の赤丸印、日撫山古墳の麓に日撫神社がある。今までと違って、地図には琵琶湖の北、湖北地方が見えている。

 

狭い農道を車で走りながら探すうちに、大きな鳥居にたどり着いた。両脇に石灯籠が並ぶ参道を抜けると、写真のような二の鳥居があり、その奥に寛成年間に創建された拝殿がある。拝殿から続く社殿は享保8年(1723)に再建されたというが、分厚い屋根が柔らかな曲線を描いて三重にも連なり、なかなか豪壮な造りだ。

 

由緒書きを見ると、明治14年に郷社に列せられたが、元は延喜式神名帳に記載された歴とした式内社である。創始の年代は分からないが、神祇志料や神社覈録(じんじゃふくろく)という古文書には、山田造(みやつこ)と火撫直(ひなでのあたい)の先祖が祀られていると記されている。どちらも新撰姓氏録では、後漢霊帝の四世の孫である阿智使臣の子孫だとされている。阿智使臣は大和の檜前郡に定住した東漢(やまとあや)の祖で、秦氏と並ぶ有力な帰化人である。応神天皇の時に、子の都加使主(つかのおみ)とともに、党類17県を率いて帰化したというが、実際には百済からの帰化人だといわれている。その子孫だという山田造や火撫直も、百済系の帰化人であることは間違いなさそうだ。

 

さらに由緒書きを読み進むと、この息長の地は息長帯比売命(おきながたらしひめみこ)すなわち神功皇后の先祖が代々住んでいたところなので、神功皇后が朝鮮半島から帰ってきた時にこの地に祠を建て、父の息長宿称王と、国土経営と医薬に功がある少毘古名命(すくなひこなのみこと)を祀ったとある。

 

本殿横の高札には、応神天皇の名前も加えられているが、応神天皇は神功皇后の子だから、あってもおかしくはない。

 

不思議に思うのは、古くからの豪族である息長氏と、百済系帰化人の氏族である山田造や火撫氏が、同じ神社に祀られていることだ。

 

沙沙貴神社や阿自岐神社などがそうだったが、神社に祀られている祭神には、まず創建時に祀られた氏神があって、その後支配者が変わると、新たに支配者となった氏族の氏神が付け加えられたということは、よくある話だった。

 

古くから、坂田郡の長浜付近には坂田酒人氏、南部の天野川流域には息長氏がいて、坂田郡の郡司の大領(長官)と小領(副長官)を独占していた。それが、平安時代になると、大領には穴太村主氏の名が続いている。

 

穴太村主氏は現代の大津市近郊の穴太を本貫とした志賀漢人と呼ばれる百済系の帰化人の氏族だ。新撰姓氏録には、後漢孝献帝の子で、美波夜王の子孫だとある。仁徳天皇の頃に朝鮮半島から渡来してくる人々があまりも多く、それまで定住していた飛鳥の今来郡が手狭になったので、摂津、三河、近江などに移住するものがいた。その中で、近江の湖西に本貫を定めた氏族を志賀漢人と称したと伝えられている。

 

坂田郡で大領になるほどの実力者になった穴太村主氏は、志賀漢人である穴太村主氏の一部がさらに移住してきたと考えられ、そこには墾田の売買があったのではないかと想像している。同じように、穴太村主氏の間隙をぬって、この地を支配するようになったのが山田造や火撫直であって、それが日撫神社に祀られている理由だと考えた。

 

日撫神社は中世には社領六百石を有し、朝妻庄11ケ村の大社として栄えた。いくつもの大伽藍と19の社坊があり、多くの社僧がいた。京極高光が建立した伽藍もあったが、度重なる兵火にみまわれ、最終的には織田信長による比叡山の焼き討ちがあった時に、神官僧侶が自ら焼いてしまったという。

 

そういえば、神社に行くと、シャリリリリーーンと澄んだ鈴の音を聞くことがある。たくさんの鈴がついて、息長鈴という。本場の息長鈴を見ようと、拝殿を探したが、見あたらない。耳を澄ましても、聞こえてくるのはアブラゼミの蝉時雨だが、五月蠅い虫の羽音にはまいった。

 

参考文献

1)伊吹町史編さん委員会編集:伊吹町史 通史編上、1997

2)朴鐘鳴編:志賀のなかの朝鮮、明石書店、2003

3)米原市教育委員会:平成20年度埋蔵文化財活用事業、米原市遺跡リーフレット

 

 



コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://frypan.asablo.jp/blog/2010/09/20/5357263/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。