第166弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 日置神社2010年10月27日 02時43分57秒






第166弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人  日置神社

 

琵琶湖の西を走る湖北バイパスを下り、山神社に着いた。本命の日置(ひおき)神社にはたどり着けず、写真はとりあえず奥の社の山神社である。日置神社は近在22ヶ村に二つある惣社のうちの上社である。

 

日置神社の日置という名前で、二つのことを連想した。

 

ひとつは、新撰姓氏録の諸番に記されている高句麗の帰化人、伊利須使主(いりすおみ)の末裔だとする日置造である。日置造以外にも、鳥居宿称、栄井宿称、和造、吉井宿称が同じ祖を名のっている。

 

 もうひとつは、弓道の流派の日置(へき)流だが、弓道が連想されるのは名前からだけではなく、日置神社に伝わるサンヤレ祭で流鏑馬の行事があり、韓国国立中央博物館で見た高句麗の壁画で、騎馬に乗って弓を射る兵士の姿を思い出したからだ。

 

そこで今回は、日置神社が高句麗からの帰化人の日置造と関係があるかどうか、また弓道の日置流と関係があるかどうか、調べてみた。

 

祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫(くしなだひめ)、大国主命、天櫛日命(あめのくしびのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、日置宿禰(ひおきのすくね)、武内宿禰、源頼道公の八柱になっている。これまでにも古代の帰化人が関係する神社には必ず素戔嗚尊が祀られていたので、帰化人の神社とするには申し分ないのだが、それにしては出雲神話に登場する祭神が多すぎる。

 

この地の伝承に、出雲神話の八岐大蛇退治に似た話がある。昔、大蛇が人々を困らせていた時に、素戔嗚尊と奇稲田姫が現れて退治したというのだ。この話といい、祭神といい、この神社の日置宿禰を祖とする氏族は、出雲に深い関係がありそうだ。

 

前川氏によると、延喜式神名帳をたどると日置神社は長野、北陸、名古屋などに7つあり、全てヒオキと読む。ヘキはヒオキが転化したと考えられているのだが、和名抄でヘキやヒオキと読む日置郷は諸国に分布しているという。

 

古代に日置氏が最も多く分布した地域は、やはり出雲であった。神門郡の日置郷が本貫とみられている。日置氏に関する出雲風土記の記述から、出雲の日置部は砂鉄の製鉄に関係し、武器の鍛造に携わっていたことがうかがえるという。出雲には国譲りの神話がある。天照大神に派遣された武甕槌命に、大国主命が出雲国を譲ったとして、歴史的に出雲が大和朝廷の支配下に入ったことを伝承している。国譲りの後、日置部は出雲から移住させられ、武器を管理する物部氏の配下に編成されたという。だが、5世紀以降に伝えられた朝鮮半島からの優れた製鉄技術によって、日置氏の製鉄は時代遅れとなって歴史から消えた。

 

時代は降って、平安時代の「三代実録」に、主殿部に仕える伴部のなかに日置部の名がある。特殊な職掌によって大王に仕える負名の氏族と考えられ、日置部は燈燭や火に関する仕事が担当だったようだ。私も子供の頃、種火をオキと言った記憶があるが、日置は火置であったという。そこから日置部は火にまつわる宗教的な部だったという説や、火と日が同根であるという発想から占いに関わる部だったという説もある。いずれにせよ、製鉄のために火を扱っていた日置氏はその特技を生かして、火に因む仕事で大王に仕えて存続した。その後、下級官吏であった日置氏は菅原朝臣に改姓している。

 

したがって、日置神社の日置宿禰を祀る氏族は、656年に高句麗から渡来した帰化人の末裔である日置造とは関係がなく、出雲の日置氏の一族と考えられた。

 

次に、弓をキーワードに、日置神社の日置宿禰、弓道の日置(へき)流の日置(へき)氏、高句麗の帰化人の日置造との接点を探ってみる。

 

どこの国でも石器時代の矢の石鏃や骨鏃が発掘され、古い時代から弓は存在していた。それがそれぞれの地域で、互いに影響し合いながらも、独自の発展を遂げた。

 

高句麗の場合は、壁画の騎馬兵が持っている弓は短弓で、日本の弓よりも短い。矢に羽がついているのは同じだが、日本の矢よりも短そうだ。和弓では弓の中央より下を持つが、騎馬兵は弓の真ん中を持っている。矢を弓の右に番えるのは同じだが、この弓の形だと、撃つ瞬間に弓を反転させる弓返り(ゆがえり)はしそうにない。もっとも、和弓でも弓返りをするようになったのは、ずっと後のことだ。

 

日本では、足利時代に弓道の各流派が生まれ、現代も日本流、日置流、小笠原流、秀鄕流など十数の流派が残っている。騎射で重きをなしたのは武田流や小笠原流で、日置流は騎射向きではない。だから、日置神社の流鏑馬は、日置流ではなさそうだ。

 

日置流の日置氏は、平家の落人の平宗清が伊賀国の柘植の辺りに住み、日置氏を名乗ったのが始まりだ。息子たちの中には近江に住む者もいたが、彼らは日置氏を名乗ることはなかったという。平宗清から数えて20代目の当主が、日置流の始祖となる日置弾正正次である。1460年頃に京都で当代随一と言われた弓の名人を破って有名になった。日置流は一人一流といわれるほど門人がそれぞれの流派を立て、中には吉田流のように足利将軍家の師範となったものもいて、日置一門の名は天下に鳴り響いたが、ほとんどは吉田流に吸収された。この吉田氏が近江佐々木氏の一族で、正次もたびたび近江の蒲生を訪れてはいるが、弓道の日置氏と日置神社との接点は見いだせなかった。

 

結局、日置神社の日置氏は、高句麗の帰化人の日置造や弓道の日置氏とは関係がなかった。

古代の帰化人は古くからの日本にある氏族の名前を名のることもあったので、古代の帰化人かどうか、姓だけで判断するのは難しい。

 

参考文献

1)谷川健一編:日本の神々、白水社、2009

2)前川明久:日本古代政治の研究 日置氏研究、法政大学出版局、1991

3)宇野要三郎監修、小山嵩茂:現代弓道講座 第1巻 総論編、雄山閣出版、1982