第170弾 のむけはえぐすり 継体天皇の筒木宮(同志社大学京田辺キャンパス)2010年12月15日 03時36分27秒







第170弾  のむけはえぐすり

継体天皇の筒木宮(同志社大学京田辺キャンパス)

 

交野天神社を出て、同志社大学京田辺キャンパスまで11Km。カラシ色の新島襄記念館の道を挟んで、同志社大学の正門がある。

 

正門を入ると、右手に小高い丘がある。ツツジに囲まれた石段を登ると、写真のような小さな広場に石碑が並んでいる。左には「正一位不動谷大明神」、右には「筒木宮址」と「継体天皇皇居故址」と書かれた石柱がある。

 

この多々羅都谷辺りに継体天皇5年から12年までの7年間(511518)、筒木宮があったというのだ。考古学的には、大学敷地の奥にある普賢寺大御堂を中心とした今の観音寺辺りにあったようで、その昔、そこに筒木寺があったと「興福寺官務諜疏」に記されている。

 

「興福寺官務諜疏」によると、普賢寺と呼ばれていた頃の山号は息長山といい、普賢寺鎮守の朱智神社の祭神は迦爾米雷王(かにめいかずち)であったという。息長足比売(おきながたらしひめ・神功皇后)の祖父である。貞観11年(869)から朱智神社に伝わる神事を担当する下司家のもとの姓は息長といい、筒木は息長氏と関係が深い土地柄であったようだ。

 

息長氏というと近江の坂田郡に住む豪族を思い浮かべるが、元はこの筒木にいたという説がある。継体の父方の系譜は応神天皇から若野毛二俣王、意富富杼王(おほほど)、乎非王(おい)、彦主人王(ひこうし)、乎富等王(をほど)すなわち継体へとつながる。水谷千秋氏は、意富富杼王か若野毛二俣王の代に大和や河内から離れて近江に土着し、継体と息長氏はその末裔であると考えている。

 

時代はさかのぼるが、筒木には仁徳天皇(16)の皇后磐之姫(いわのひめ)が住んだ宮があった。

 

仁徳天皇は徳のある天皇とされているが、女性が大好き、そのくせ恐妻家でもあった。磐之姫が紀州に柏の葉を採りに行った隙に、仁徳天皇はかねて目をつけていた矢田皇女を妃として王宮に入れてしまう。それを知った磐之姫の怒りは激しく、仁徳のいる難波宮を素通りし、山背川(木津川)をさかのぼり、筒城に籠もってしまった。難波から船で木津川を上って筒木に行くルートを使ったわけだ。筒木にいて失意の磐之姫が詠んだ歌がある。

 

つぎねふ 山背河を 宮のぼり 我がのぼれば 青丹よし 那羅を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり

 

枕詞があって分かりにくいが、要するに、木津川をさかのぼって、奈良、大和を過ぎて、私が見てみたい国は葛城にある高宮の辺りですという意味である。陸路、木津川から奈良山を越えて奈良に出て、そこから三輪山の麓の大和を通り、葛城に行くルートを使うわけだ。

 

筒木から奈良山を越えて奈良までは直線で11Km、木津川と奈良の最短距離は3Kmほどで、筒木と奈良は近い。奈良側には和珥(わに)氏がいた。和珥氏は今の天理の辺りに住んでいたが、敦賀との交易によって富を得て、本拠地を今の奈良盆地北部に移し、春日氏を名のった。和珥氏は開化天皇(9)以来、大王家との関係が深く、応神、反正、雄略、仁賢、継体、欽明、敏達に10人もの后妃を出している。後世、その財力を背景に平城宮を誘致したが、磐之姫や神功皇后の前方後円墳がある佐紀佐保古墳群は平城宮址のすぐ北にある。

 

磐之姫がふるさとを葛城といっているのは、葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の娘だからだ。葛城氏は葛城山の東の麓に住んでいた豪族で、4世紀から5世紀にかけて大王に后妃を出し、大王となった皇子も多い。葛城襲津彦は朝鮮半島へ遠征し、秦氏の祖である弓月君を招いたとされ、朝鮮半島との関係も深い。

 

古事記には磐之姫が筒木で身を寄せたのは、「筒木の韓人、奴理能美(ぬりのみ)の家」だという。新撰姓氏録では百済系となっている。蚕を飼育していたらしく、磐乃姫が筒木に来た言い訳に、珍しい蚕を見に来たと詠んだ和歌がある。葛城氏は秦氏だけではなく、百済からの帰化人とも関係が深かったようだ。

 

新羅の王子、天之日矛(あめのひぼこ)の話は秦氏の伝承であるといわれているが、天之日矛の5世孫が息長足比売(神宮皇后)の母の葛城之高額比売(たかぬかひめ)である。父は息長宿爾王で、秦氏が葛城氏と息長氏の接点にいるように思える。

 

そこに地理的にも近い和珥氏が絡むのだが、系図を見ると、和珥氏の祖、日触使主の娘が産んだ応神の子に菟道稚郎子(うじわきのいらつこ)皇子と矢田皇女がいる。菟道稚郎子皇子は応神の後を継ぐはずの太子だったが、応神が死んで3年間、仁徳と互いに王位を譲り合った末、自らの命を絶って仁徳を即位させた。謙譲の美徳談の裏に、きな臭さが漂う。皇子を支援する母方の豪族の力関係が変化して、廃嫡事件があったとは考えられないだろうか?

 

磐乃姫の嫉妬の末の別れ話は、その菟道稚郎子皇子の姉だか妹の矢田皇女を妃に迎えるという話が発端になっている。葛城の娘である磐乃姫にとって、和珥氏の妃を迎えることは、女としてよりも、葛城一族と皇子たちの命運がかかった話だったのかも知れない。仁徳の元へ戻らず、意地を通した磐乃姫は5年後に筒木で亡くなった。その後、矢田皇女が皇后になったが、磐之姫が産んだ皇子たちは履中、反正、允恭となって王位を継いだ。

 

筒木には磐之姫の頃から、息長氏、和珥氏といった近江に関係の深い氏族のルーツが交錯していた。継体の王宮を筒木に移した理由がそこにあると思った。

 

参考文献

1)森川禮次郎:古代大和を歩く、産経新聞出版、2010

2)森浩一、門脇禎二:継体王朝、大巧社、2000

3)塚口義信:神宮皇后伝説の研究、創元社、1988

4)水谷千秋:謎の大王 継体天皇、文藝春秋、2006