第172弾 のむけはえぐすり 継体天皇の三島藍野陵(太田茶臼山古墳)2011年01月04日 19時33分24秒






第172弾  のむけはえぐすり

継体天皇の三島藍野陵(太田茶臼山古墳)

 

継体は弟国を出て、527年に大和の桜井市の磐余(いわれ)玉穂宮に入った。その5年後の531年に崩御し、三島藍野陵に葬られた。その陵墓指定地となっているのが、写真の太田(おおだ)茶臼山古墳である。

 

西国街道と道標のある一方通行の狭い道を右折し、茨木市の太田地区公民館の駐車場に車をとめた。西国街道とはかつての山陽道の江戸時代の呼び名だ。中でも京都から西宮までを山崎通(やまざきみち)といい、大阪を通らずに西国へ行く脇街道として参勤交代にも使用されていた。

 

公民館の前にある太田茶臼山古墳の案内には、この古墳が全長226m、前方部幅147m、前方部高19.8m、後円部径138m、後円部高19.2mで、前方部と後円部の接するところの両方に造り出しがあり、幅30mほどの濠に囲まれていたと記されている。公民館の敷地は古墳の外堤にかかっており、敷地内から発見された円筒埴輪の様式と古墳の形から、5世紀に造られた前方後円墳と推定された。531年が没年の継体とは年代が合わないわけで、最近では近くにある今城塚古墳の方が継体の陵墓だというのが通説になっている。

 

写真のように天皇陵の参拝所はいずこも同じ画一的で、必ず前方部に設けられている。もともと古墳の形式として、後円部が埋葬の場所になっているからだろう。今見ると古墳は杜におおわれているが、1500年間崩れることなく残った段丘がはっきりと見えるのには驚いた。

 

この陵墓の真の被葬者分からない。だが、今城塚古墳と同じ三島野古墳群を造る母体となった氏族は、継体の支援氏族だったはずだ。それは誰なのか?

 

この古墳の近くに太田住居跡遺跡がある。近年の共同住宅開発に伴い、急ぎ発掘調査が行われ、今年の7月にその概要が公開された。それによると、弥生時代後期の竪穴式住居が発掘され、弥生式土器の他に、5世紀後半の甕や杯蓋と、7世紀後半から8世紀前半にかけて須恵器が出土したことが報告されている。

 

となると、太田の辺りは弥生時代の後期から、集落が数十年の単位で営まれては次に移動し、100年か200年経った頃にまた新たな集洛が営まれるといった歴史が繰り返されたと考えられる。

 

文献的には、播磨国風土記の揖保郡大田の里の条に、昔、韓国(からくに)から渡来して紀伊国名草郡大田村に住んでいた呉勝(くれのすぐり)の一部が、摂津国三島賀美(上)郡太田村に移住したと記されている。新撰姓氏録でみると、呉氏は右京の「百済国人徳卒呉伎側之後也」とあるから、ある時期、この辺りには百済系の帰化人が住んでいたことが分かる(太田と大田は出典の表記のまま記載している)。

 

先代旧事本紀の景行天皇の条に、景行天皇の皇子の豊門入彦命が太田別祖とある。この本は製作者や製作時期などの由来が偽られている可能性がある偽書だが、内容的には平安時代に太田を名のる氏族がいたことはいたようだ。

 

さらに、新撰姓氏録の摂津国神別には、「中臣大田連、同神(天児屋根命)十三世孫御身宿禰之後世」とあることから、中臣大田連が太田部を統率していたこともあったようだ。報告書では、7世紀後半から8世紀前半の太田集落遺跡はこの太田部に関連した集落の一部ではないかと推測している。

 

7世紀頃に中臣氏がこの辺りに進出していたことは、周辺にある古墳や神社の存在からも分かる。実は、この古墳を見た後、直線で1Kmほど離れたところにある、地図の三角印、安威神社に行ってみた。

 

安威神社は、阿武山から連なる小高い安威山の麓にある。安威神社からは安威の集落が一望でき、民家の屋根の間に名木「乾邸の大銀杏」の黄色が鮮やかにそびえ立っていた。社殿は最近改築されたらしく、真新しい瓦屋根で造られ、祭神は天児屋根命であり、安威は中臣藍連が支配していたという。この地の中臣氏の進出に関しては二つの説があって、河内の小勢力であった中臣氏が継体の支援氏族として継体の時代に一緒にやってきたか、天智以降に継体の墓を守るためにやってきたかのどちらかだと、「日本の神々」には紹介されている。だが、中臣鎌足以前の中臣氏は出自がよく分ってはおらず、継体の頃はそれほど力のあったとは思えない。

 

ところが、この安威の周辺に関して、日本書紀に面白い記事がある。

継体が没した年に大王を継いだ安閑は、その年の閏12月、三島に行幸した。その時に三島県主の飯粒(いいぼ)が、上三野、下三野、上桑原、下桑原の良田を一括して献上し、三島竹村(竹生とも)の屯倉(みやけ)となった。三島県主飯粒は勅を賜ったことを喜び、子を大伴金村の従者にした。一方、屯倉を献上しなかった大河内直味張は叱責され、大伴金村に河内の土地を贈った。以降、河内県の部民は竹村屯倉の田部となったという。

 

安威の隣に今でも桑原という地名があり、大阪府史では竹村屯倉が安威川流域に想定されている。継体と安閑が大王による列島内の支配秩序の再編成と中央集権化を図り、盛んに屯倉を設置した頃だ。脅し同然に、大伴大連金村や物部麁鹿火をはじめとして、各地の豪族に屯倉を献上させていた。守屋尚氏は、屯倉とは御田(みた)と倉とから成立する土地とその生産物に対する収奪支配の体制であるとしている。御田はオンダとも読み、それが大田連の大田につながったと、発掘調査報告書は指摘している。

 

真の継体の陵墓とされる今城塚古墳は、その規模から継体が即位して間もなく造り始められたと考えられる。今城塚古墳が作られる頃には太田茶臼山古墳は存在していたわけだが、太田のあたりも含めて膨大な人数が動員されただろう。そのような大きな力を持った継体の支援氏族とは、この地を直接支配する三島県主だが、その上にいたのが摂津国住吉にいて河内湖の流域を支配していた大連の大伴金村であったと考えれば、全ては合点がいく。

 

参考文献

1)茨木市教育委員会:太田遺跡発掘調査概要、2010

2)谷川健一編:日本の神々3 神社と聖地、白水社、2009

3)大阪府史編集専門委員会:大阪府史 第1巻 古代編1,1978

4)守屋尚:物部氏の盛衰と古代ヤマト王族、彩流社、2009

5)関裕二:藤原氏の正体、新潮文庫、2010



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