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第182弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 坂本 滋賀院門跡 ― 2012年08月05日 15時47分56秒
第182弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 坂本 滋賀院門跡
今の近江の湖西、大津市の辺りは古代の滋賀郡であり、北から真野鄕、大友郷、錦部(にしごり)鄕、古市(ふるち)鄕があった。かつての大友鄕から古市鄕にかけて、今の坂本から石山までの14.1Kmの区間を京阪石山坂本線が走っている。21の駅があり、複線の線路をカラフルな2両編成の電車が、頻繁に行き交っている。
今、まさにこの京阪電車の走る辺りに、地図のように北から三津首、穴太村主(あのうすぐり)、志賀漢人(あやひと)、大友村主、錦部村主、再び大友村主、大友但波史などの古代の帰化人が住んでいた。
京阪電車の駅をひとつひとつ立ち寄りながら、古代の帰化人たちの足跡を訪ねてみたいと思った。
今回は、始発の坂本駅である。
新しい駅舎の坂本駅から、日吉神社へと向かう。日吉馬場と呼ばれる参道の両側に200本ほどの桜並木が植えられ、ところどころに石燈籠が置かれている。明治の廃仏毀釈で一旦ここにうち捨てられていたものを、再び整然と並べたというから面白い。道の両側には、大人の肩ほどの高さの石積みに囲まれた建物が並んでいる。山上の坊に対する里の住まいで、里坊といい、坂本の町にはたくさんある。三津首が出自とされる最澄の誕生の地に建てられた生源寺の案内に、里坊とは「環境の厳しい山上での修行を積んだ僧が、高齢になり、天台座主(ざす)の許可を得て隠居所として住んでいた場所」と記されている。
暑い夏の日差しのなかを桜並木の木陰に守られながら200mほど歩いて、左に折れた先に、写真のように石積みが一段と高い、白い塀に囲まれた滋賀院門跡がある。里坊を代表する滋賀院は延暦寺の総本坊である。元和元年(1615)に慈眼大師天海が京都の法勝寺を移築して建立されたのが始まりで、1655年に後水尾天皇から滋賀院の号と寺領一千石を賜り、江戸時代の末まで天台座主であった法親王が代々住まわれていた。明治時代に火事で焼失するまでは滋賀院御殿と呼ばれていたが、現在の建物は山上にあった建物を移築したものだという。
坂本の町を美しく見せているのは、町の至る所にある里坊を囲む石積みである。滋賀院門跡の美しい曲線の石積みに代表されるその石積みは、穴太衆積みと呼ばれる技法で作られている。
穴太衆積みは自然石と粗割石を使用して積み上げる野面積みの一種だが、穴太衆積みが有名になったのは、織田信長の安土城の築城に用いられてからだ。安土城の石垣作りを各地の石工たちが競い合うなかで、穴太衆の築いた石積みはイエズス会のルイス・フロイスが、「城壁も石垣も頗る高かったが、たいそう巧妙に築造されていて、・・・極めて堅固で立派に見え・・・」と驚嘆するほど素晴らしかった。それ以後、全国の大名の間に穴太衆積みの評判は広がり、穴太衆は各地の城づくりに招かれ重用されるようになった。
石積みの技術者として穴太衆が歴史に登場するのは、足利義政が銀閣寺の東山殿の石垣を築くのに必要な雑木を「あなうのもの」に与えよという記述が最初である。これより先の14世紀の史料には、「穴太散所法師」という記事がある。散所とは「古代から中世において、その住民が年貢を免除されるかわりに権門社寺に属して土木や掃除などの雑役に服した地域」をさしていて、穴太には比叡山の支配下にあり石積みのような特殊技術を持った隷属民が、下級僧侶として集団的に居住していたとする見解もある(平野、39P)。
穴太衆の本貫は、今の京阪電鉄坂本駅から穴太駅の間のもっと山の方といわれている。その辺りには高句麗や百済の流れを汲む、ドーム状に天井が持ち送りになった横穴式古墳が坂本に30基、穴太に234基、滋賀里に158基と数多く、古代の帰化人たちが居住していた足跡がある。
穴太衆積み14代粟田純司氏は、「その横穴式古墳の石組みの形は、穴太衆積みのルーツといってよい型だ」という(平野、86p)。ならば、穴太衆は百済の帰化人の子孫かというと、その間には千年に近い時間差がある。技術は伝わったかも知れないが、それを子孫とまでは到底いえないだろう。
坂本に住み、穴太衆積みを今に残す粟田純司さんにしてからが、初代は阿波国の石工、阿波屋喜兵衛だったという。豊臣秀吉の命により、穴太衆が徳島城を修復した折、見習い職人となった喜兵衛が穴太衆の帰国と共に坂本に移り住んだと伝えられている。その頃、元禄年間の坂本には穴太衆が300人ほどいたというが、今は阿波屋改め粟田建設が一軒残るだけだという。粟田純司さんで14代を数えるが、それでもたかだか300年である。5世紀に住み着いた百済の帰化人、あるいは7世紀の白村江の後に大挙してやって来た帰化人の子孫が、千年経って穴太衆だなどと、軽々しくいえない理由はそこにある。
今回、13代目の万喜三さんが伝えた穴太衆積みの極意に、なるほどと思うことがあった。それは、石垣の壁となる石面の合わせ口を、表面となる石面で合わせないで、表面から10cmほど奥で合わせなさいという話だ。石垣の表面をぴっちり合わせた割石や切石による石垣の方が、ゆがみを生じやすい。上手に過重を分散できないからだという。さらに、石積みにはタブーも多い。基本は品の字の形に積むのだが、石の形状に合わせて適当に積んでしまう「落し積み」もタブーのひとつだ。農漁村にみる素朴な石垣が、それだという。
「石がそこに座りたいといってるやろ。そこに積んでやるこっちゃ」といっていた万喜三さん。座右の銘は、「石の声を聴け」
参考文献
1)平野隆彰:穴太の石積、あうん社、丹波市、2007
2)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978
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お土産話のアップを楽しみにしてますよ(^^♪
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