第184弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 坂本 最澄・三津首広野2012年09月13日 02時38分24秒








第184弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 京阪線沿線 坂本 最澄・三津首広野

 

 日吉大社から歩いて5分、比叡山坂本ケーブルに乗り、比叡山へと向かう。山頂駅の展望台から琵琶湖を望むと、写真の左の奥に猛暑のなか琵琶湖大橋が霞んで見える。

 

大橋の左側が湖西線の堅田駅の辺りだが、古代でいえば真野鄕になる。琵琶湖はそこから狭くなり、写真の中央にある緑濃い小高い山との間に雄琴駅がある。その右手に続く町並みが坂本で、古代の大友郷である。

 

 坂本は日吉大社の門前町として栄え、比叡山の里坊の町でもあった。日吉大社の参道に面した里坊の生源寺が、天台宗の祖最澄の生誕地と伝えられ、境内には産湯に使ったとされる井戸がある。

 

 下の写真は、比叡山の根本中堂の前にある伝教大師童形像である。最澄は天平神護2年(766)に生まれ、「叡山大師伝」に「年7歳にして学同列を超え」とあり、小学では抜群の成績を修め、小学の教師になることを勧められたほどの秀才であった。13歳で国分寺に入り、15歳で得度(正式に仏門に入ることを許可されること)が認められ、その時から最澄を名のった。

 

古代から近世までの古文書が東京大学史料編纂室によって集大成された「大日本古文書」という本の中の「来迎院文書」に、伝教大師最澄の得度に関する記録がある。俗名は三津首広野といい、滋賀郡古市鄕戸主正八位下三津首浄足の戸口と記されている。三津首浄足は最澄の祖父か叔父の名で、古市鄕の人だという。

 

この三津首について、「元享釈書」の「最澄伝」に「其先東漢献帝之孫・・」とある。先祖は後漢最後の皇帝、献帝(孝献帝、在位189220)の登万貴王で、国が滅び、応神の頃に日本に来て、滋賀の地に土地を賜ったという。献帝の子孫は、新撰姓氏録の諸蕃にいくつかの氏族が登場する。新撰姓氏録とは815年に嵯峨天皇によって編纂され、当時、京域と5畿内に住む1182の氏族の出自を明らかにしたもので、そのうち帰化人の氏族である諸蕃は326氏族ある。その中で献帝の子孫と称する氏族は、献帝の子の博竜王の子孫が台忌付(うてなのいみつき)と河内忌付、美波夜王の子孫が志賀の穴太村主(すぐり)、孝徳王の子孫が広原忌付、献帝の4世の孫山陽公の子孫が当宗(まさむね)忌付などである。

 

三津首は新撰姓氏録には記載されてはいない。京域と山城国大和国河内国和泉国摂津国5畿内に住む氏族が対象なので記載されなかったか、首という姓(かばね)の身分が低すぎて記載されなかったか。大伴氏や穴太氏にしても本当に後漢の皇帝の子孫かどうかは怪しいが、三津首は大友氏や穴太氏と同じ伝承を持つ帰化人であり、百済系の帰化人と考えられている。

 

三津氏の本貫に関して、「日本歴史地名体系」は今の石山寺の近くの古市鄕としている。古市鄕にはかつて国昌寺があった。平安初期に近江国分寺が焼失した時に近江国分寺の寺格を継承した寺で、最澄13歳の時に修行をはじめ、15才の時に得度した寺である。古市鄕には大友丹波史という有名な氏族がいるが、三津首は大友丹波史とともに古市鄕の有力な豪族であり、両氏によって国昌寺が創建されたとしている。

 

一方、三津氏の三津とは、坂本の東南、大友郷の志津、戸津、今津の三つの津(港のこと)に由来する名で、湖沿いの陸地や交通を掌握していたと考え、大友郷が三津氏の本貫だったという説もある(池田:2012)。

 

坂本には広野の生誕地とされる生源寺があり、そこから歩いて間もない小さな丘の上にかつて紅染寺(こうぜんじ)があった。その紅染寺跡が最澄の父、百足の旧宅のあった所だ。永井路子氏は「雲と風と」の中で、当時の妻訪い婚の風習から、最澄の父、百足が古市鄕から大友郷まで訪ねて行く姿を想像している。

 

最澄の母は贈太政大臣藤原魚名の子の鷲取の娘、藤子と伝えられている。永井路子氏は、確かに藤原鷲取に藤子という娘はいるが、実際の年齢を計算すると、広野の母とするのは無理だという。また、左大臣まで上がった藤原魚名の孫が、正八位の三津首浄足の息子と結婚するはずはないともいう。したがって、最澄の母を藤原氏としたのは、後に桓武天皇と最澄の親密な関係から生まれた伝承であるとし、藤子は三津首と同程度の小さな豪族の娘だったのではないかと考えている。

 

私はもう少し違う興味から、藤子の出自を調べてみた。桓武天皇の母、高野新笠の先祖は百済の武寧王の子の純陀(じゅんだ)で、百済からの帰化人の子孫である。桓武天皇は即位後、百済王(くだらこきし)氏との関係を深め、百済王氏の女性、明信を信任し、その夫である藤原朝臣継縄を右大臣として重用した。実質ナンバーワンである。この辺りに広野の母の藤子との接点がないか、藤原氏の系図を紐解いてみた。

 

藤原不比等には4人の息子がいた。藤原継縄は藤原四兄弟の長男、武智麻呂の直系で、藤原南家の人である。藤原鷲取の父、魚名は四兄弟の次男の房前の5男で、藤原北家の人である。その妻で鷹取の母は四兄弟の三男、藤原宇合(うまかい)の娘で、藤原式家の人である。当代の学問仏教の第一人者、伝教大師の母に藤原家出身の女性を配したのは、夫の藤原南家や百済系帰化人に箔をつけることを目論んだ明信あたりから出た話と疑って調べてみたが、藤子と明信はそれほど近い関係ではなかった。

 

のむけはえぐすりの第182弾の「滋賀郡の渡来系氏族の分布図」では、坂本の辺りに三津氏の名がある。その割には「大日本古文書」に三津氏の記事がない。同じ百済系の帰化人の中でも、三津氏は大伴氏や穴太氏と並ぶほどの有力な氏族ではなかったのではないかと、私も考えている。

 

参考文献

1)池田宗譲:最澄と比叡山、青春出版社、東京、2012

2)西田弘:近江の古代氏族、真陽社、京都、1999

3)田辺正三、井上満郎:湖都の黎明:新修大津市史1 古代、大津市役所、1978

4)永井路子:雲と風と 伝教大師最澄の生涯、中公文庫、中央公論、東京、1990