第185弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 穴太 髙穴穂神社2012年09月21日 23時38分15秒











第185弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 京阪線沿線 穴太 髙穴穂神社

 

 始発の坂本の次が松の馬場、その次が穴太である。駅は、山から湖岸までの短い傾斜の途中にある。300mも山に向かえば四ツ谷川に沿った穴太野添古墳群があり、湖岸に向かえば穴太廃寺跡がある。

 

現在の穴太廃寺跡は西大津バイパスの高架の下にある。1979年に西大津バイパスが完成するまでの発掘調査で、この辺り一帯に縄文時代から7世紀にかけての4層以上に重なる集落の遺跡のあることが分かった。

 

 一番上の第1遺構面には、7世紀中頃の柵や溝の間に掘立柱建物群と切妻大壁造住居跡がある。上の写真は切妻大壁造住居の発掘の様子で、四角形に掘られた溝とその中に等間隔に柱が並んでいる。地面から上の部分を土で塗り込めて壁を造り、それで屋根を支える構造になっている。内部は土間であったらしい。

 

上から2番目の第2遺構面は、6世紀末から7世紀初頭にかけての住居跡で、掘立柱住居群と切妻大壁造住居の他に、礎石を持つ14m5mほどの建物もみつかっている。第3遺構面は、6世紀後半の掘立柱建物群の遺構である。第4遺構面は縄文時代の遺跡である。そのうち、第1から第3までの遺構面には切妻大壁造住居や礎石建物などの特殊な建物があり、近くにオンドルのある建物も発見されていることから、帰化人の集落の遺跡と考えられている。ざっくり言えば、穴太の一帯には560年頃から630年頃にかけて、帰化人の集落があったといえそうだ。

 

 穴太廃寺跡には2層の寺院跡が重なっている。下層の寺院は白鳳時代の創建とされ、中門を入ると右手に五重塔、左手に西金堂、そしてその向こう正面に中金堂がある「一塔二金堂」の川原寺式伽藍配置で、近くの南滋賀町廃寺と同じ配置である。だが、建てられて間もなく、全面的に建て替えられ、上層の寺院跡は大津宮の建物と方位が一致していることから、大津宮と同じ頃に建てられたと考えられている。瓦に刻まれた「庚寅年」の年代から、こちらもざっくりと、下層の穴太廃寺の創建は630年頃といえそうだ。

 

 現代の穴太駅から100mほどの所に、髙穴穂(たかあなほ)神社の杜が見える。

 

杜を目当てに歩いて行くと、髙穴穂神社の鳥居の横に案内がある。髙穴穂宮跡(伝承地)と記され、景行(12)は3年、成務(13)は61年、仲哀(14)は半年と、三帝の都の跡とある。拝殿と本殿はあっけないほど小振りで、とても天皇の宮の旧蹟とは思えない。下の写真のような杜の奥にある東郷平八郎によって揮毫された「髙穴穂宮址」の碑で、どうにか面目を保っている。

 

髙穴穂宮は古代から成務の宮地という認識だが、髙穴穂神社の周辺に宮殿らしい遺跡や遺物はみつかってはいない。成務の業績として、日本書紀に各地の豪族を国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)に任命したことが記されている。古代に地方行政組織を確立した天皇とされ、全国支配を成し遂げたように語られている。

 

それを連想させる伝承が、成務の周りにはある。成務の兄は小碓命すなわち倭健命で、倭健命は父・景行の命令で九州、出雲、東国に遠征して成功したとする伝承がある。この伝承が成務の全国支配と重なる。

 

また、倭健命の命を奪ったのが近江の伊吹山の神であり、倭健命が息長氏の系譜に登場し、息長帯比売命(神功皇后)につながる。この伝承が成務の都が近江にあることと重なり、近江が重要な役割を果たしていることを示している。

 

結局、成務には子がなく、成務の後を継いだ仲哀は倭健命の子である。成務は在位60年、107才で亡くなったとされるが、日本書紀には実質5年の記録しかない。成務の地方支配の説話を、後の天智の大津宮における中央集権化の投影と見る説は多く、大津市史も日本歴史地名体系もこの立場をとる。成務は実態が謎に包まれた天皇である。

 

崇神(10)、垂仁(11)、景行(12)、成務(13)、仲哀(14)、応神(15)と続く系譜の中で、崇神の都は磯城、垂仁の都は纒向で、共に三輪山麓にあった。陵墓は崇神が山辺、垂仁が平城宮の西にあり、三輪王朝と呼ぶ。それに対して、応神の都は橿原、仁徳の都は難波だが、陵墓は共に河内にあり、河内王朝と呼ぶ。三輪王朝から河内王朝への交替があったと考え、両王朝の交替はスムーズではなく、成務と仲哀の時代はその混乱期であったとする説がある(大津市史、79p)。成務の都は髙穴穂宮で、陵墓は平城宮の北で三輪王朝に近いが、仲哀は都が福岡の香椎宮だが陵墓は河内で河内王朝に近い。成務の髙穴穂宮はその混乱のなかで生まれた都と考えられている。

 

その髙穴穂の地に、百済からの帰化人、穴太氏がいた。「歴代天皇記」をみると、成務の在位は4世紀中頃となっている。一方、穴太氏の先祖が帰化したのは応神の頃というが、実際は百済の近肖古王の時代のこととされ、400年前後に比定されている。ということは、後漢の孝献帝の子、美波夜王の子孫が穴太氏を名乗ったから穴太の地名になったのではなく、穴太の地は古くは穴穂(あなほ)といい、百済からの帰化人が穴穂に居住したから穴太氏となったようだ。

 

「あのう」の地名は、畿内の交通の要所に多いという(日本歴史地名体系、214p)。今回、穴太駅から見渡した一帯は、山が湖に迫る四ツ谷川の扇状地であった。大和と山城からはいずれの間道を通っても、この狭隘な地を通らなければならない。農業に適した土地とはいえないが、北陸道の要所であることが分かった。

 

参考文献

1)滋賀県教育委員会(2012年):切妻大壁造住居跡,http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2001/index.html  20129月確認

2)日本歴史地名体系25巻、滋賀県の地名:平凡社、東京、1991

3)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978

4)肥後和男編:歴代天皇記、秋田書房、東京、1985