第186弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 滋賀里 百穴古墳群2012年09月27日 20時54分53秒











第186弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 滋賀里 百穴古墳群

京阪線穴太駅の次は、滋賀里駅。駅から山に向かって、「大津京の道」を約1km歩くと、百穴(ひゃっけつ)古墳群がある。

 坂本から大津の間は山が湖に迫り、平地が少ない。その丘陵部の急斜面や扇状地の要の位置に、多くの後期古墳の群集墳がある。

68基の日吉大社古墳群の周囲には140基。152基の穴太野添古墳群の周囲には218基。63基の百穴古墳群の周囲には214基。そして、南滋賀と錦郡の周囲に70基と、全て数えたら1000基は優に超える。

 地図で古墳群の分布を見ると、穴太の穴太野添古墳群のグループと滋賀里の百穴古墳群のグループとの間に、ほんの200~300mだが古墳群が途切れるところがある。そこが、古代の大友郷と錦郡鄕の境目だと大橋氏はみている(大橋、147p)。

 百穴古墳群のそばを際川が流れ、森の中に枯れ葉に覆われた斜面の所々に大きな石が露出している。石は半ば埋もれながら、ここに2個、あそこに3個と顔を出している。中には、石室内部が見える古墳もある。

 写真は露出した玄室で、手前が石室の通路だったのだろう。玄室の左右と奥の壁が、上に行くほど内側にせり出している。「持ち送り」と呼ばれ、かなり急な傾きである。手前の石は石室の天井を覆っていた石のようだ。この大きさだと天井は2~3個の石に覆われていたのではなかろうか。他の地方にはなく、6世紀中頃に盛んになり6世紀末には消滅した横穴式石室である。一般的にこのような横穴式古墳の3分の1には、ミニチュア炊飯具が副葬されているという。ミニチュア炊飯具はこの百穴古墳群の古墳からも発見され、帰化人の古墳と考えられている。

 志賀漢人という言葉がある。古代の滋賀郡の南部は、大友村主、穴太村主、錦部村主などの帰化人で埋め尽くされ、これらの帰化人たちを志賀漢人と呼ぶことを山尾幸久氏が提唱した。志賀漢人には先にあげた主な3氏の他に、槻本村主や三津首などもいる。多くは後漢の献帝の子孫を名乗っている。

志賀漢人とは何者で、いつ頃、どこから来たのか、滋賀里あたりにいたのはどの志賀漢人かということに興味がある。

 その手がかりになるのが、坂上系図にある姓氏録の逸文である。応神天皇の頃、阿智王は段、李、郭、朱、多、皀(きゅう)、高の7姓の漢人を率いて帰化し、大和国檜隈郡に住んだ。しばらくして阿智王は、同じ出身地の人々が高句麗や百済や新羅に離れて住んでいるので、呼び寄せたいと申し出た。仁徳天皇の頃に、たくさんの人々がやって来て、初めは今来郡(今の武市郡)に住んでいたが、手狭になったので諸国に移住したというのだ。

 もとより、この話がどれほどの史実に基づいているのか、分からない。だが何者かということでは、志賀漢人が姓氏録で後漢献帝の末裔と主張するように、中国系の渡来人と見る説もあるが、この姓氏録の逸文からは、先に帰化した人々の招きによってやって来た高句麗や百済や新羅からの人々ということになる。

いつ頃かというと、仁徳天皇の頃という。それを、志賀漢人を唱えた山尾氏は、当時の国際情勢に対する分析から、570年とみている。新羅の隆盛に危機感を抱いた高句麗から日本海ルートで使節が派遣され、その対応のために志賀津という交通の要所にこれらの人々を配置し、実務を担当させたという。一方、大橋氏は607年に小野妹子の遣隋使派遣の一行の中に、志賀漢人慧隠の名がみえることから、それ以前から住み始めており、大津北郊の後期群集墳の築造年代からすると、5世紀後半から6世紀後半あたりまでを考えている。

どこからということでは、もとは朝鮮半島からだが、先に来て檜隈郡に住んでいた倭漢(やまとあや)氏のもとに統合され、河内や大和に住んでいた人々の中から、配置されてきたということのようだ。

何のためにということでは、大和政権の指示で、北陸、東山道諸国からの物資を湖上ルートで輸送する際に、志賀津で管理・運営するためということだが、その運営にあたったのは蘇我氏である。

最後に、この滋賀里に住んでいたのは、どの志賀漢人かということだが、百穴古墳群から1Kmほど南にある志賀町廃寺が天平時代の錦部寺にあてられることから、錦部村主の氏寺であったと考えられる。だから、この志賀里あたりに住んでいた志賀漢人は、錦部村主であったといえそうだ。だが、錦部鄕に錦部がいたことは文献的には確認されていない。

実は大友氏も穴太氏も近江全域に進出し、各地で勢力を築いた記録はあるが、志賀鄕のどこに居住していたかが分かるような記録がない。先に述べた古墳群が途切れる場所が大友鄕と錦部鄕の境だとして、大友氏の本拠は氏(うじ)の名が一致する大友郷と考えられる。大友鄕の南には穴太氏の本拠があったので、大友氏は北、すなわち坂本周辺に本拠があったと考えられる。

ところが、「続日本紀」によれば、延暦6年(787)に大友村主、大友民曰佐、錦曰佐、穴太村主がそろって志賀忌付を賜ったと記されている。「続日本後紀」には、837年に今度は志賀史、錦部村主、大友村主が春良宿禰を賜ったとある。それぞれの氏族がそろって願い出たわけだが、この同じ姓を名乗ることになった氏族はその昔、出身が一緒だった可能性がある。

200年たっても、あるいは300年たっても、自らの出自に対する絆と思いは続いていたということなのだろう。
 
 参考文献
1)大橋信弥:古代豪族と渡来人、吉川弘文館、東京、2004


コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://frypan.asablo.jp/blog/2012/09/27/6586016/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。