一年ぶりのフライペン パート12012年10月01日 21時36分34秒

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横浜で日曜に飲み会があるというので土曜にほぼ一年ぶりにフライペンに・・・

香姫店長は相変わらず元気でした・・・もとい「綺麗でした」(^_^) 




今回の花マルはこの「蔘鶏湯風鶏のスープ」
絶品でした(^_^) 



それとこのナチュラルチーズとサラミも美味しかった



例によって水彩画風スケッチで店長とカウンター




いかの和え物




to be continued

スーパーチュズデイでやっと晴れました (^_^)2012年10月02日 20時51分46秒

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ここのところデンタルショーやら天候不順やらでテニスができてませんでしたので
火曜の平日テニスに。

できたらもうけ・・・のはずが晴れて暑い・・・嬉しい悲鳴です。

ナダルのハイブリッドはあっさり諦めてテクニファイバーの一押しナイロン
XR3 1.25mmです

予想通り柔らかいのですが反発があって打感もいいです。
スピンもかかりますので・・・合格!

耐久性はあんまり期待してないので様子見ましょう (^_^) 





そうそう、今回「恐る恐るコルセットを外してプレイしました」・・・大丈夫
これで来る3連休が一挙に期待できます

晩飯が終わって歯磨きしてたら「右手の甲がつった」 (^_^;;;


一年ぶりのフライペン 美味しいものシリーズ 第二弾2012年10月03日 21時06分06秒


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TG-1の「ローライト」で撮ったフライペン玄関

この日は土曜だというのに満員・・・昔のフライペンの仲間ほとんどに会えました

こんなことはしょっちゅう通っていてもなかった・・・

しかも香姫は「僕が来ることを忘れていた」(^_^;;;



キムチ



サラダなんですが右端に見えてるのは牛肉のかたまり・・・これはサラダとは言わない



絶妙な味付けのきんぴらごぼう




得意のジョン



この焼いた鯖がめちゃ美味かった



誰かが書いてましたがこの刺身は日本料理屋や寿司屋も負けます




第187弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 近江大津宮錦織遺跡2012年10月05日 06時09分50秒











第187弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 近江大津宮錦織遺跡

 

 次は、近江神宮前駅で降りる。この辺りになると、周りは住宅になっている。駅から西に向かい、車通りの多い47号線に出る。

 

そこで右折するとすぐ、住宅の間に1軒分ほどの広さの平地があり、「史跡近江大津宮錦織遺跡 第8地点」と記された案内板がある。案内には、この地の北に隣接する第1地点で、昭和49年に内裏南門跡が発見され、この地に大津宮があったことが確認されたと記されている。

 

発見者は、当時、滋賀県教育委員会文化財保護課の若い技師、林博通さんである。林さんは南滋賀廃寺の瓦工房跡を調査するため、三井寺の近所にあったアパートから歩いて通っていた。晩秋の頃、この地に重機が入って地面を掘削しようとしているのを目にした。直感が働いたのだろう。その場で、施主の伊藤さんに調査を願い出た。何かが出ると、確信があったわけでもない。それでも、伊藤さんのご厚意で承諾していただいたという。

 

「そういう所をいくら掘っても、何も出やしないヨ」という言葉を背中で聞きながら、林さんは教育委員会を説得し、調査は始まった。間もなく平安時代末の土器片を含む地層にあたった。さらに掘り進むと、地面から95cmの深さに四角い穴の跡が発見された。穴は垂直に掘られ、穴に詰まった土は硬く突き固められた様子がうかがえた。四角い穴の大きさは1辺が1.6m前後なので、宮殿クラスの建物が予想された。これが規則正しくどちらかの方向に並んでいるのが確認できれば、柱穴と判明する。果たして、その穴の東側1.5mの所に同様の大きさの方形の穴があった。柱穴は合計13個発見され、東西南北に整然と並ぶ構造から門と回廊と判断された。

 

結局、この調査は3月までかかり、史跡として公有化するかなどの議論があった末、遺跡は埋め戻され、伊藤家に返還され新居が建てられた。その時点では、大津宮に限りなく近い遺構という結論で、確定ではなかった。その後、空き地や住宅建設の際の調査を重ね、新たな発見が続き、昭和53年に志賀県教育委員会は大津宮の所在地を錦織地区であると発表した。次いで昭和54年には国の史跡に指定された。これまで、このような重要な決定は国が行ってきたから、極めて異例のことで、林さんは多少の軋轢があったことをほのめかしている。

 

今回、第8地点の案内板を撮った写真の背景に、偶然にも伊藤家の住宅が写っていた。その時はそのような経緯を知らない私は、伊藤家に敬意を払うこともなく、通り過ぎてしまった。

 

車道をさらに北へ向かう。緑の多い小さな公園があり、3mほどの高さの石碑が立っている。明治28年に建てられた石碑には、日吉大社の宮司が書いた漢文が彫られているが、摩耗してほとんど読めない。題字は志賀宮跡碑と篆書で書かれている。

 

碑文の内容を調べてみると、天智天皇の志賀大津宮の旧蹟だということから始まる。かつては舟と車が往来し栄えたが、いつか草が茂り田畝となって場所が分からなくなった。古老に尋ねると、錦織里に御所内という地名があるという。時折壊れた瓦が出たり、一帯にも皇子山とか東大路、西大路といった地名もあったりするので、ここに碑を建て、この地を大津宮の跡地として「無窮に伝える」とある。要するに、地名を頼りに、たいした根拠もなく、この地を大津宮跡と決めたようだ。

 

結果的には正解だったが、大津宮の所在がつい最近まで分からなかったということに驚いた。

 

それまでは、大津宮の所在について数々の論争があった。江戸時代には、錦織村の「御所跡」の地名を頼りに所在地論が展開した。明治時代になると、大津北郊にある条里遺構と小字名から導き出そうとする動きと、平安後期に比叡山の僧が書いた歴史書「扶桑略記」などの文献を頼りに、崇福寺や梵釈寺の遺構から割り出そうとする動きがあった。その頃は滋賀里説や南滋賀説が主流であった。昭和49年春、今のJR大津京駅の北側にある古代の溝の遺構から、大津宮から流れてきたとみられる音義木簡が見つかった。溝の上流にある錦織が大津宮の所在地として注目される発見であった。錦織第1地点で大津宮の遺構が発見されたのは、その年の秋であった。林さんの直感には裏付けがあったのだ。

 

志賀宮址碑をさらに北へと向かう。再び平地があり、地面には丸太が並んでいる。案内には大津宮錦織遺跡第2地点とある。第2地点は天智天皇自ら政(まつりごと)を執った内裏正殿のあった場所と推定されている。内裏正殿の建物は、道を挟んで第7地点から第9地点まで、東西が21.3m、南北が10.4mあったとされる。地面から突き出た丸太は、昭和57年に発掘された10個の柱穴の場所を示している。当時の柱の直径は35cmで、礎石を使わず直接地中に柱が埋め込まれていた。柱が焼けた痕跡はなく、抜いて持ち去られたようだという。

 

南門のあった第8地点から89m離れて内裏正殿のあった第2地点まで、南北一直線に走る47号線に沿って存在したことになる。今歩いてきたその道は大津宮の南北の中軸線であることが判明し、後世の西近江路と呼ばれた幹線道路だった。

 

そして、路傍にもう一つ案内があった。錦部(ママ)鄕は、機織(はたおり)関係の職務に携わっていた朝鮮半島からの渡来人である錦部氏が、奈良時代以前より、当地一帯を居住地としていたと、地名の由来が記されていた。

 

 参考文献

1)林博通:幻の都 大津京を掘る、学生社、東京、2005

2)大津市歴史博物館編:近江・大津になぜ都は営まれたか 大津宮・紫香楽宮・保良宮、サンライズ出版、彦根、2004

3)大橋信弥、小笠原好彦:新・史跡でつづる古代の近江、ミネルヴァ書房、京都、2003


改装なった東京駅2012年10月06日 03時22分12秒

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東京に出張することになったので改装なった東京駅に


全景は撮れないので分割



たしかパンすればパノラマが撮れたはずなんだけどTG-1だったのかiphone5なのかわからなくなったので分割に(^_^) 



全景はこんな感じです



ドーム




よくよく拡大すると金網みたいなのが・・・保護のためについてるのかな?



真下からみたところ



ステーションホテル

昔はこの2階にバーがあって本郷の会社に言ってた頃はカウンターでジントニックを飲んでから
帰ったものだ



廊下も綺麗に



カナダのCMHヘリスキー申込書2012年10月07日 23時12分09秒

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来年4月のカナダ CMHヘリスキーの申込書です。

これで「毎日ヘリコプターで新雪滑りまくりの一週間」への道が確定します。


先週金曜日はCEATECと秋葉原でのセミナーにかこつけて御茶ノ水に行って新しい
スキーウェアもゲットしました(^_^) 

早く雪がふらないかな。。。。

秋空のもと、テニスとカキフライ2012年10月08日 19時10分34秒

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晴れたので万博記念公園で4時間テニス。

コルセット無しで全力プレイに問題ないことがわかったので「気分は最高」



そのあとはお決まりの とんQ本店

10月はカキフライです



カキフライとメンチ




牡蠣用の塩


秋は何もかもが美味しくて満足、満足

第188弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 新羅善神堂2012年10月13日 06時49分34秒










第188弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 新羅善神堂

 錦織遺跡からタクシーで新羅善神堂へと向かう。大津市役所の裏の森に続く道を入ると、左に弘文天皇陵、右に新羅善神堂がある。あいにく新羅善神堂は修理中でシートに覆われていた。
 
新羅善神堂は第5世天台座主の円珍(在位868-)が創立したと伝えられている。

天台座主とは天台宗の総本山、比叡山延暦寺の住職であり、一宗の首長として教学を統括し、教団経営にあたる僧職をいう(大津市史Ⅰ334p)。宗祖の最澄を座主とはいわない。座主と呼ぶのは最澄の後を継いだ初世義真(824-)からで、それも太政官から任命されるようになったのは、第2世円澄(833-)の後、第3世円仁(854-)からである。
 
当時、国費による得度者を年分度者という。いわば官費の奨学僧だが、毎年何人と決められていた。最澄は帰国後、その割り当てを南都六宗の10名に対して、2名獲得した。だが、その得度や受戒は従来通り東大寺戒壇で行うことが義務づけられ、国家仏教の支配から抜け出すことはできなかった。さらに、年分度者の2名の内、1名は天台宗、もう1名は密教の専門と定められた。最澄は密教の灌頂(種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式)を授ける資格がない。それができるのは、最澄と同じ遣唐使船に乗っていた空海で、空海は長安の青龍寺で恵果に師事し、密教の阿闍梨位の灌頂を得て帰国した。そのため、最澄は密教では7才年下の空海に弟子として教えを請い、自らの弟子の灌頂を空海にお願いする立場にあった。だが、二人は徐々に対立を深め、決別した。

最澄の没後、7日目にして比叡山に大乗戒壇建立の勅許が下った(822年)。翌年、比叡山の寺は延暦寺と改められ、延暦寺において得度、受戒が可能になり、ようやく国家仏教の支配から脱することができた。だが、当時は空海の真言密教による加持祈祷が貴族社会に流行しており、天台宗の僧は「比叡無食の僧」と言われるほど困窮を極めていた。

天台宗における密教の不備を補ったのが、円仁である。円仁は835年に唐に渡った。長安に留まり、空海が受法した金剛界、胎蔵界はもちろん、空海も受法しえなかった蘇悉地(そしつじ)の大法を学び、天台密教の弱点であった悉曇(しったん)も習得し、約10年後に帰国した。それ以後、天台密教の真言密教に対する劣等感はなくなり、天皇や貴族にも灌頂ができるようになった。円仁は円澄の後を次いで、第3世天台座主となった。

833年、初世義真が亡くなり第2世を円澄が継いだ時、義真系の弟子は比叡山を追われ、大和の室生寺に移った。勢力挽回を願った室生寺の義真の弟子たちは、満を持して、円珍を唐に送り出した。

853年、円珍は唐の商船に乗って出発した。唐に6年間滞在し、円仁以上の密教、天台を極め、数多くの典籍と共に帰国した。円珍は比叡山東塔西谷山王院の住房唐院を建て、それらの書物を収蔵し、自らもそこに住んだ。その後、円珍は園城寺の別当に迎えられた。園城寺は大友与太王が壬申の乱で敗れて亡くなった父・大友皇子(後の弘文天皇)の菩提を弔うために寺地を寄進して建立された寺で、琵琶湖湖岸の広大な土地を有していた。866年、滋賀郡少領大友村主夜須良麿の請願により、園城寺は円珍を主持として天台別院となった、

円珍は摂政藤原良房の知遇を得て、清和天皇や良房など30人を超える貴族の入壇受法を行った。この頃から比叡山の僧は巨大な荘園領主となり、生活は華美になった。868年、円珍は第5世天台座主となった。円珍の在職23年の間、延暦寺では円珍派が勢力を伸ばし、円仁派門徒と競い合った。993年、ついに両派の門徒は武力衝突し、円珍派門徒は比叡山を下り園城寺に移った。以後、天台宗の宗徒は比叡山に残った円仁派の山門派と、園城寺に移った円珍派の寺門派に別れ、長く争うことになった。

これまで、ながながと天台宗徒が山門派と寺門派に分かれ紛争にいたった経緯を述べてきた。そこを踏まえて、これからが新羅善神堂の本題である。

1062年に藤原実範が書いた「園城寺竜華会縁起」という本がある。その中に、円珍が唐から帰国する船のなかで、新羅明神と名乗る老翁が現れ、弥勒菩薩の世が来るまで円珍のために仏法を守ると約束したと記されている。帰国した円珍は、新羅明神の導きで、園城寺を復興し新羅善神堂を設立したという。

新羅善神堂に祀られている新羅明神像は、今は秘仏である。平安後期に作られた新羅明神像は、不思議な容貌をしている。唐服、三角形のあごひげ、むくんだ顔、何よりも印象的なのは垂れ目である。山門寺門両派の抗争が激しい中で作られ、あきれている顔だという人もいるが、私が見るには、「えー!! なんでぇー!?」といって中年のおじさんの困った時の顔だ(URL参照)。

方や、延暦寺は中国山東省にあった赤山法華院を守護神にして、人を集めていた。園城寺にもそうした外来神が必要となり、新羅善神堂が作られた。新羅善堂の前身は、大友氏の氏神だったのだろう。そのため、百済系の大友氏の氏神を新羅善神堂と名乗るのは、不思議だと考える人もいる。

大友村主氏は後漢献帝の苗裔(すえ)と、続日本紀に記されている。百済系というのは後世の考証であって、当時は後漢の最後の皇帝の子孫を自称していた。今更、百済系を名乗るわけにもいかない。かといって、後漢を滅ぼした唐の神様を祀るわけにもいかない。9世紀の半ば、百済の故地は統一新羅の支配下にあった。地方勢力の反乱が相次ぎ、衰えたとはいえ、新羅である。百済が滅亡して200年、今更百済にこだわることはない。いっそのこと、「新羅でいいヤ」となって、新羅善神堂になったと私は考えている。

参考文献
1)新羅明神像:NHK日曜美術館、2012年10月確認、
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/1123/index.html 
2)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978
3)日本歴史地名体系25巻、滋賀県の地名:平凡社、東京、1991



最近の移動をTG-1のGPSログでGoogle Earthで2012年10月14日 21時26分54秒

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最近の幕張メッセのCEATECとかフライペン、娘のいる八王子等に行ったのをTG-1のGPSログでGoogle Earthに表示してみました



無事に上海に着きました2012年10月21日 02時42分24秒

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無事に上海に着きました。

但しJALの機内はご覧のようにガラガラ



松江の日本料理屋さんも元気に仕事をしていて万歳万歳なのですがいつまでこの状態が
続くのか。。。。

もう日本時間夜中の3時なので寝ます

I arrived at Shanghai successfully?
However Japan Airline was empty as above.

Good night