第189弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 唐橋前 瀬田唐橋 ― 2012年11月04日 03時22分58秒
第189弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 唐橋前 瀬田唐橋
京阪線を唐橋前駅で下りると、すぐ瀬田唐橋の西詰がある。写真は西詰めから見た現代の瀬田唐橋である。遠くに三上山、左手に琵琶湖を見ながら、中州を越えて、屋形船が停留する東詰に行く。
そこから右の堤防まで下りると、「日本三大名橋 瀬田の唐橋」と書かれた石碑と、写真のような1543年から1979年まで24回橋が架け替えられた歴史が記された「瀬田の唐橋 架替略歴」がある。
側にある雲住寺は百足退治で有名な藤原秀鄕ゆかりの寺で、600年前に子孫の蒲生高秀候によって建立された。藤原秀鄕の百足退治とは、夜な夜な現れては琵琶湖の魚を食い尽くし、人々を困らせていた三上山の百足を秀鄕が退治し、喜んだ人々から一生食い切れないほどの米俵をいただいて、それで俵藤太と呼ばれたという話だ。
1988年、ちょうどこの雲住寺のあたりの浚渫工事に先立ち、堤から15mほど入った川の中の調査が行われた。
川の中の一区画を鋼板で囲い、排水して乾燥させると、川底に10m四方ほど整地された跡があった。そこに川の流れの方向に直径20cmほどの丸太が数本並べられ、その上に直径25cmほどの丸太が直角方向に重ねて11本並べられていた。そのまた上に、40~50cmの角材が長い六角形に組まれて置かれ、角材には穴が1カ所ずつあけられていた。その穴は橋脚の柱を立てるための仕口(しぐち:木材を接合する技法の一種)だという。全体が大量の山石で埋められた状態で、木造の橋が流されない仕組みになっていた。川が深ければ現代でも難工事だが、それができた当時の川底は今より浅かったのではないかという人もいる。その15mほど先にも同じような跡があり、橋脚の遺構と確認できた。
この調査に先立つ潜水調査では、無文銀銭や和同開珎といった天武期以前に使われた貨幣が出土していた。勢多(ママ)橋の建設工事や補修工事の際の地鎮祭的に使われたと推測され、かなり古い橋の遺構であることが分かった。
瀬田川にかかる橋の記載は、日本書紀の壬申の乱での記載が初見である。
不破関を出陣した村国男依(おより)率いる大海人軍は、横河(米原付近か)の戦い、安河の戦いに連勝し、天武5年(676)7月17日に瀬田の東岸に到着した。近江方の将、智尊は精兵を率いて西岸に陣取り、勢多橋の中央を杖3本ほどの幅に切断し、綱のついた一枚の長板を渡しておいた。もし渡る兵士がいれば、板を引いて下に落とそうという罠だ。大海人軍の進軍は止まった。しばらくすると、大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)が鎧を重ね、刀を抜いて、一気に板を渡った。板に付いていた綱を切り、さらに突入した。近江方は驚き、総崩れとなった。智尊は逃げる兵士を切り、押しとどめようとしたがかなわない。智尊は橋のほとりで切られた。逃げ場を失った大友皇子は山前に身を隠したが、23日に自ら首をくくって死んだ。
壬申の乱で大分君稚臣が渡った橋が、今回橋脚が発見された橋なのだろうか。
今回みつかった勢多橋は天武以前に作られたというから、時代としては近そうだ。それでも、和同開珎が出土していることから8世紀初頭より古いということはないとされる。先ほどの「架替略歴」をみると、橋は436年間に24回架け替えられ、古い時代には約15年で架け替えられている。流されたり壊れたりすれば、すぐ架け替えられたのかというと、そうでもないらしい。更級日記には「瀬多橋(ママ)皆くずれて渡りわづらふ」とあり、平治物語には頼朝が流罪となって東国に行く時に、「勢多(ママ)には橋もなくて、船にてむかひの地へわた」ったと記されている。壊れたままにされた時期もあったらしく、一つの橋の寿命はもっと短かった可能性がある。8世紀初頭に作られたとしても、今回の勢多橋は676年まではさかのぼれないようだ。
平城京で発見された橋の橋脚には掘立柱の構造と、柱の先を尖らせて打ち込んだ打ち込み柱の構造の2種類があり、今回の勢多橋のような例はないという。この勢多橋は当時の日本にあった橋とは違う流れで作られていたと考えるべきで、これに似た橋は韓国の新羅の都、慶州にあった月精橋だという。
慶州の宮城、月城の南側を東西に南川が流れていて、そこに1984年に石造りの橋跡と、19m下流に木造の橋跡が発見された。石造橋の方は統一新羅初期の8世紀半ばの文献にある「月浄橋」に比定され、木造橋は7世紀後半の「楡橋」に比定された。二つの橋の橋脚の基礎構造は、縦長の六角形であり、今回の勢多橋と同じである。慶州以外では、高句麗にも大きな橋の遺構はあるが、橋脚の構造は舟形や菱形ではない。百済からは小さな橋しか見つかっていない。そこで、今回の勢多橋は新羅系の帰化人によって作られたと考えられている。
天智は百済復興運動に荷担し、663年に唐と新羅の連合軍に白村江で敗れた。天智の時代ならば、新羅系の帰化人による橋の建設はあり得ない。天武の時代になると、一転して、新羅との関係は親密になる。天武の即位に際し、新羅から使節が来て祝賀を述べている。680年に建立された薬師寺の伽藍様式は新羅の双塔式伽藍であり、新羅系の瓦も出土している(小笠原編:東潮、229p)。
7世紀末から8世紀にかけて、急速に新羅系の文物が近江に広がった。勢多津のあったこの辺りには百済系の志賀漢人が古くからいたのだが、今回の勢多橋が新羅の帰化人によって作られたとしても、不思議ではない時代があった。
(勢多、瀬田、瀬多の表記は依拠した文献の表記をそのままを用いた)
参考文献
1)宇治谷猛:全現代語訳 日本書紀、講談社学術文庫、東京、2009
2)小笠原好彦編:勢多唐橋、六興出版社、東京、1990
3)滋賀県文化財保護協会編:琵琶湖をめぐる交通と経済力、サンライズ出版、滋賀県
4)大津市役所:新修大津市史Ⅰ古代、大津、1978
喜び組 ― 2012年11月04日 20時27分50秒
おおたかの森病院 ― 2012年11月07日 05時58分33秒
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おおたかの森病院
昨日は振休で「毎日が日曜日」のおじさん達とテニスのはずが生憎の雨・・・・ということで「おおたかの森病院」に。
実は僕のテニスの師匠でもある高橋利実さんが先月17日に急性心筋梗塞で入院しているということでお見舞いに。
なんと「胸が食べ過ぎの時の胸焼け」みたいで30分経ってもおさまらないので「これはもしかして心臓ではないか?」と考えて近所の医院に行ったら急性心筋梗塞ということで救急車でこの病院に搬送された・・・という「信じラブル」な話(^_^)
しかもステントを2箇所もいれて、なおかつ精密検査で不整脈が見つかり今月1日にペースメーカーを埋め込んだという。すっかり元気でリハビリルームのランナーで走っているし、今週末に退院できたら来週末は大学のテニス合宿とか言ってる(^_^)
まあ、なにはともあれ元気で良かった
第190弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 石山寺 ― 2012年11月13日 03時34分08秒
第190弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 石山寺
京阪線坂本石山線の終点、石山寺駅から瀬田川の大きな流れに沿って10分ほどで、石山寺の東大門に着く。
深い緑の桜やキリシマツツジの古木に囲まれた参道を、本殿へと向かう。右手の急な石段を上り、蓮如堂と毘沙門堂の間を抜けると、天然記念物に指定された硅灰石(けいかいせき)の岩塊のある庭へと出る。写真のように、まるで水飴をこねたようにうねる岩肌は、黒くザラザラしている。石灰岩が中途半端な熱で大理石になり損ねたというこの岩は、石山寺の由来となった。
鎌倉時代に作られた「石山寺縁起絵巻」によると、良弁(ろうべん)がこの岩の上に聖武天皇の念持仏を安置し、完成間近い東大寺の大仏に鍍金する黄金の産出を祈願した。すると、陸奥国から黄金産出の報があり、朝廷に献上された。この場所は、良弁の夢の中に吉野の金峯山(こんぷせん)の金剛蔵王が現れ、「近江国滋賀郡、水海の岸の南に一つの山があり、大聖垂迹の地なり」とのお告げがあったので来てみると、比良明神の化身の老翁に会って教えられたという。
念願が叶って、良弁が仏を戻そうとすると、仏は石の上から動かない。そのまま、辺りを整地して仏閣を建てたのが石山寺の創建である。761年に、岩の上に粘土製(塑像)の本尊が作られたが、1078年の火災によって損傷し、1211年についに崩壊した。1245年に新たな木造の如意輪観音が製作され、古い本尊の胎内にあった金剛仏の4体が再び納められた。今も本尊の背面にある厨子のなかには、30cm前後の4体の鋳造仏がある。観音菩薩には頭頂に小さな仏様(化仏:けぶつ)があるのが特徴で、4体のうち飛鳥時代に作られた2体の仏様には化仏があり、観音菩薩と分かった。良弁の岩の上から動かなくなった金剛仏とは、この内の一つということになるのかも知れない。
今はこの本尊は秘仏となって見ることができないが、木造の二臂(にひ)の如意輪観音である。臂とは肘のことで、他に多面多臂といった使い方もある。観音様は限りない慈悲によって、現在生きている人間の苦しみを除き、願い事を叶えることができる現世利益(げんぜりやく)の仏様である。いろいろな願い事に応じられるように、多くの顔と多くの手を持った姿をした観音様を変化観音といい、千手、馬頭、十一面、准胝(じゅんてい)、如意輪といった五種類の観音様がある。変化しない基本の姿をした観音様を聖観音(しょうかんのん)といい、普通に観音様というと聖観音を指す。聖観音は出家前のお釈迦様の姿が基本なので、宝冠を被り、装身具つけ、ゆったりと体に天衣や条帛(じょうはく)をまとい、きらびやかな姿をしている。
五種類の変化観音と聖観音の組み合わせを六観音といい、地獄道、餓鬼道、畜生道などの六道で迷える衆生を救うために、担当が決められている。石山寺の本尊の如意輪観音は、天道に住む天人の煩悩を救うという、比較的恵まれた観音様である。法華経では、観音様は子供や女性や鬼といった三十三の姿に変身するとされ、ここから三十三カ所観音霊場を巡拝する信仰が生まれた。
石山寺は奈良時代から観音信仰の参拝の寺として有名で、平安時代の花山天皇の頃に成立した西国三十三カ所観音霊場にも選ばれた。現在は第十三番札所に数えられている。石山寺は京から近く、琵琶湖を望む風光明媚な地であることから、信仰と遊覧を兼ねた石山詣が平安時代の宮廷の女性に流行した。清少納言の枕草子に登場し、藤原道綱の母の蜻蛉日記、菅原孝標の娘の更級日記にもとり上げられている。
先ほどの硅灰岩の庭を左手に行くと、山の斜面に張り出した舞台の上に本堂がある。懸造り(かけづくり)という。初期の本堂は1078年に焼失し、現存する本堂は1096年に再建された。写真のように、本堂の横、入り口近くに、「紫式部源氏の間」と記された小さな部屋がある。中に十二単を着た女性のマネキンが置かれ、紫式部だという。
紫式部は、一条天皇の后、上東門院彰子(しょうし)に女房兼家庭教師として仕えた。1004年、紫式部は彰子の願いによって、物語を書くために七日間石山寺に籠もった。8月15日の夜、月に映える琵琶湖を眺めながら、物語の構想が浮かび、手近にあった大般若経の裏に書き留めた。それは源氏物語の冒頭の「いずれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひける中に・・・・」ではなく、源氏が恋の遍歴の末の不祥事から須磨に住むことになって、十五夜を見ながら都を回想する場面であったという。
この話は、石山寺縁起や、1367年に成立した源氏物語の注釈本「河海抄」に記されている。本堂脇の「源氏の間」は紫式部が参籠した部屋ということにされ、その時に使用したとされる硯も残された。
創建当時の石山寺は檜皮葺の仏堂1宇、板葺きの板倉1宇、他に板屋が9宇の小さな寺であった。759年に淳仁天皇によって石山寺の近くに保良宮が造営される際、その鎮護の寺院として増改築が行われた。その後、孝謙上皇によって再び平城宮に都が戻されると、保良宮は寂れ、石山寺だけが残った。
761年に「造東大寺司」のもと「造石山寺司」によって増改築が行われた時に、良弁は大僧都として全国の僧尼を統括する僧綱(そうごう)の最高位にあった。良弁は東大寺造営にも関与する傍ら、たびたび石山を訪れ、工事を指揮した。これが良弁と石山寺の伝説の元になったようだ。
良弁の出自は、「東大寺要録」には相模国漆部氏とあるが、「元享釈書」には「姓は百済氏、近州志賀里の人」ともある。2年ほど前、上田正昭先生は良弁が百済氏の出自で、百済系の"渡来人"の末裔と講演なさっていたのが懐かしい。
参考文献
1)綾村宏編;石山寺の信仰と歴史、思文閣出版、東京、2008
2)宇津野善晃監修:よくわかる仏像の見方、JTBキャンブックス、1998
3)古社名刹巡拝の旅15:湖南 滋賀、集英社、2009
4)朴鐘鳴編:志賀のなかの朝鮮、明石書店、東京、2003
のむけはえぐすりのびっくり ― 2012年11月14日 21時00分16秒
阿見プレミアム・アウトレットに初めて行ってkぃました ― 2012年11月25日 19時55分15秒
あみのアウトレットでアディバリのテニスシューズが安く売ってるというテニス仲間の情報で行ってみました・・・「あみプレミアム・アウトレット」
ここは米国のショッピングモール開発の大手チェルシーがやってるんですね。
行ってみて驚いた・・僕の家から「めちゃ近!!!!」 10km、10分!!! これならテニスの後の閉店間際にあそびに行ってもいいなぁ。。。
写真に「牛久の大仏」がシルエットで写ってます。
アディダスのショップでアディバリ6が7980だったので在庫にあった2足を早速購入・・・レジに行ったら「なんとそこから20%引き!!!!」6400円で買えてしまいました(^_^) 超ラッキー(なんで20%引きなのかはわからず)
これでしばらくは靴を気にしなくてすみそうです。
テニス4時間、とんQ、アウトレットと充実の日曜日でした(^_^)
筑波山で紅葉狩り ― 2012年11月27日 21時53分29秒
第191弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 唐橋前 建部大社 ― 2012年11月29日 20時51分51秒
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第191弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 唐橋前 建部大社
瀬田唐橋から徒歩10分ほどで建部大社(たけべたいしゃ)の一の鳥居に着く。二の鳥居からは玉砂利が敷かれ石灯籠が並ぶ参道の先に、木肌の色が新しい平屋の神門がある。その横にある大きな石碑には、「建部大社 近江国一之宮 御鎮座壱千参百年式年 大祭記念」と彫られている。
中の拝殿の前に、三本の杉の古木がある。三本杉は孝徳天皇の755年に、大己貴命(おおむなちのみこと)を拝殿に奉祀した時に、一夜にして成長したと伝わるご神木である。
その奥に二つの社が並んでいる。左側の本殿には日本武尊(やまとたけるのみこと)と、相殿には天明玉命(あめのあかるたまのみこと)が一緒に祀られている。右側の権殿(ごんでん)には、大己貴命(おおむなちのみこと)が祀られている。本来、権殿は空殿であるべきなので、大己貴命は後で配祀されたと考えられ、三本杉の由縁はそれを物語っているようだ。
日本書紀では日本武尊、古事記では倭健命と記される。二の鳥居の側の由緒書きには、建部大社は景行の46年(316)4月に、神崎郡建部鄕千草獄に日本武尊(建部大社は日本武尊の記載の方をとっている)を祀ったのが始まりで、天武の白鳳4年(675)4月に近くの大野山に遷されたとある。社伝によれば、現在地には755年に健部伊賀麿によって遷されたという。建部伊賀麿は、続日本紀766年7月条に、近江国滋賀郡の軍団の大毅(たいき:養老律令では1000人の軍団の長のこと)であり、朝臣の姓を賜ったとある。
建部君の祖は犬上君と同じ、倭健命が安(野洲)の国造の祖である意富多牟和気(おおたむわけ)の女(むすめ)の布多遅比売(ふたぢひめ)を妻として生んだ稲依別王である。建部氏はこの地の豪族であり、建部大社は建部氏の氏神であった。
倭健命は景行の長男である。倭健命は景行の命によって、播磨、吉備、豊前、豊後、日向を経て、九州の熊襲建を征服した。熊襲建のいまわの際の遺言で建(たける)を名乗るようになった。帰途、出雲を制圧し、大和に戻った。休む間もなく、倭健命は東征を命じられた。倭健命は「父は私に死ねと思っている」と嘆き、伊勢に叔母の倭比売を訪ねた。倭比売から草薙剣をもらって東征へと旅立つ。尾張を出発し、焼津、相模を平定し、房総半島へと向かい、関東平野から足柄、甲斐、信濃と回って、再び尾張へと戻った。この後、伊吹山の神を素手で捕まえると勇んで伊吹山に入ったものの、神の化身の白猪に出会い、これを無視したために神の怒りにあって瀕死の重傷を負った。これが元で、倭健命は伊勢の能褒野で命を落とした。
古事記では、倭健命はその生涯を大和朝廷のために捧げ、ついに大和に帰り着くことがなかった悲劇の英雄として描かれている。
このような倭健命の伝承は、大和朝廷が地方への支配を進める中で、建部という一種の軍事集団の事績を一人の英雄に集約したものととらえる説がある(大津市史Ⅰ、91p)。全国の建部神社と建部鄕の分布を地図でみると、近江、美濃、吉備、出雲といった地域により多く見られている。その地域が大和朝廷の支配下に入る過程で、軍事的抵抗が強く、そこに建部が軍事的プレゼンスとして存在したことを示しており、建部のタケルが倭健命のタケルと結びついて作られた伝承と考えられている。
建部大社の東に500mほどのところに、近江国府の史跡がある。建部大社は、かつての近江国府の方八町ないしは方九町の正方形の区域の西南の角に位置する。近江国府は、瀬田川と東海道と東山道の交通の要衝を守る重要な軍事的位置にある。
712年から4年間、近江国府の守(かみ)は藤原不比等の長男の藤原武智麻呂(むちまろ)であった。その後を継いだのが武智麻呂の子、藤原仲麻呂で、右大臣に就任するまでの13年間その任にあった。仲麻呂が守を辞してから、守は不在のまま、仲麻呂の息のかかった3人の次官が就任し、仲麻呂が影響力を保持していた。
757年、仲麻呂は橘奈良麻呂の変で政敵を葬ると、その功により「押勝」を名乗り、「汎(ひろ)く恵む之美(のび)」を意味する「恵美」の二字を姓に加え、恵美押勝とした。私印である「恵美之印」を行政の命令書の公印として用いるほどの権力者となった。仲麻呂の絶頂の時である。
だが、急激な中国文化の模倣や、石山寺に近い保良宮への遷都など、強引な政権運営に人心は離れていった。史上6人目の女帝である孝謙天皇(46)は、758年に天武系の淳仁天皇(47)に譲位した。上皇となった孝謙は保良宮で病気になった折、それを治したのが道鏡である。その時から、孝謙は道鏡と親密になり、溺れ、それを諫めた淳仁天皇や仲麻呂と対立するようになった。
762年には、伊勢、美濃、越前、近江の国府に、年令は20才から40才の郡司の子弟や百姓から選んだ兵士を健児(こんでい)とする軍事強化策がとられた。763年には仲麻呂派の有力官僚の排斥が始まり、近江国府には孝謙派の官吏が派遣された。764年、追い詰められた仲麻呂は再起を図ろうと近江国府を目指すが、先回りをした孝謙派の数百の騎馬隊によって近江国府は奪取され、勢多橋は焼き落とされた。進退に窮した仲麻呂は逃げる途中、三尾の辺りで討ち取られた。世にいう、恵美押勝の乱である。
三本杉の伝承の755年に建部大社に大己貴命が奉祀されたのは、軍事氏族であった建部氏への楔(くさび)と懐柔であったと考えられる。健児は仲麻呂自らが作った軍事態勢ではあったが、駅馬の利用に必要な駅鈴と、天皇の印である内印(鈴印)の両方を孝謙方に押さえられては、軍は動かせない。建部伊賀麻呂が766年に軍団の長官となり朝臣の姓を賜ったのは、建部が仲麻呂にではなく、鈴印に従ったことによる論功行賞だった可能性があると思った。
参考文献
1)八幡和郎:本当は謎がない「古代史」、ソフトバンク新書、東京、2011
2)小笠原好彦編:勢多唐橋、六興出版社、東京、1990
3)大津市役所:新修大津市史Ⅰ古代、大津、1978
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