第190弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 石山寺2012年11月13日 03時34分08秒










第190弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 石山寺

京阪線坂本石山線の終点、石山寺駅から瀬田川の大きな流れに沿って10分ほどで、石山寺の東大門に着く。

深い緑の桜やキリシマツツジの古木に囲まれた参道を、本殿へと向かう。右手の急な石段を上り、蓮如堂と毘沙門堂の間を抜けると、天然記念物に指定された硅灰石(けいかいせき)の岩塊のある庭へと出る。写真のように、まるで水飴をこねたようにうねる岩肌は、黒くザラザラしている。石灰岩が中途半端な熱で大理石になり損ねたというこの岩は、石山寺の由来となった。

鎌倉時代に作られた「石山寺縁起絵巻」によると、良弁(ろうべん)がこの岩の上に聖武天皇の念持仏を安置し、完成間近い東大寺の大仏に鍍金する黄金の産出を祈願した。すると、陸奥国から黄金産出の報があり、朝廷に献上された。この場所は、良弁の夢の中に吉野の金峯山(こんぷせん)の金剛蔵王が現れ、「近江国滋賀郡、水海の岸の南に一つの山があり、大聖垂迹の地なり」とのお告げがあったので来てみると、比良明神の化身の老翁に会って教えられたという。

念願が叶って、良弁が仏を戻そうとすると、仏は石の上から動かない。そのまま、辺りを整地して仏閣を建てたのが石山寺の創建である。761年に、岩の上に粘土製(塑像)の本尊が作られたが、1078年の火災によって損傷し、1211年についに崩壊した。1245年に新たな木造の如意輪観音が製作され、古い本尊の胎内にあった金剛仏の4体が再び納められた。今も本尊の背面にある厨子のなかには、30cm前後の4体の鋳造仏がある。観音菩薩には頭頂に小さな仏様(化仏:けぶつ)があるのが特徴で、4体のうち飛鳥時代に作られた2体の仏様には化仏があり、観音菩薩と分かった。良弁の岩の上から動かなくなった金剛仏とは、この内の一つということになるのかも知れない。

今はこの本尊は秘仏となって見ることができないが、木造の二臂(にひ)の如意輪観音である。臂とは肘のことで、他に多面多臂といった使い方もある。観音様は限りない慈悲によって、現在生きている人間の苦しみを除き、願い事を叶えることができる現世利益(げんぜりやく)の仏様である。いろいろな願い事に応じられるように、多くの顔と多くの手を持った姿をした観音様を変化観音といい、千手、馬頭、十一面、准胝(じゅんてい)、如意輪といった五種類の観音様がある。変化しない基本の姿をした観音様を聖観音(しょうかんのん)といい、普通に観音様というと聖観音を指す。聖観音は出家前のお釈迦様の姿が基本なので、宝冠を被り、装身具つけ、ゆったりと体に天衣や条帛(じょうはく)をまとい、きらびやかな姿をしている。

五種類の変化観音と聖観音の組み合わせを六観音といい、地獄道、餓鬼道、畜生道などの六道で迷える衆生を救うために、担当が決められている。石山寺の本尊の如意輪観音は、天道に住む天人の煩悩を救うという、比較的恵まれた観音様である。法華経では、観音様は子供や女性や鬼といった三十三の姿に変身するとされ、ここから三十三カ所観音霊場を巡拝する信仰が生まれた。

石山寺は奈良時代から観音信仰の参拝の寺として有名で、平安時代の花山天皇の頃に成立した西国三十三カ所観音霊場にも選ばれた。現在は第十三番札所に数えられている。石山寺は京から近く、琵琶湖を望む風光明媚な地であることから、信仰と遊覧を兼ねた石山詣が平安時代の宮廷の女性に流行した。清少納言の枕草子に登場し、藤原道綱の母の蜻蛉日記、菅原孝標の娘の更級日記にもとり上げられている。

先ほどの硅灰岩の庭を左手に行くと、山の斜面に張り出した舞台の上に本堂がある。懸造り(かけづくり)という。初期の本堂は1078年に焼失し、現存する本堂は1096年に再建された。写真のように、本堂の横、入り口近くに、「紫式部源氏の間」と記された小さな部屋がある。中に十二単を着た女性のマネキンが置かれ、紫式部だという。

紫式部は、一条天皇の后、上東門院彰子(しょうし)に女房兼家庭教師として仕えた。1004年、紫式部は彰子の願いによって、物語を書くために七日間石山寺に籠もった。8月15日の夜、月に映える琵琶湖を眺めながら、物語の構想が浮かび、手近にあった大般若経の裏に書き留めた。それは源氏物語の冒頭の「いずれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひける中に・・・・」ではなく、源氏が恋の遍歴の末の不祥事から須磨に住むことになって、十五夜を見ながら都を回想する場面であったという。

この話は、石山寺縁起や、1367年に成立した源氏物語の注釈本「河海抄」に記されている。本堂脇の「源氏の間」は紫式部が参籠した部屋ということにされ、その時に使用したとされる硯も残された。

創建当時の石山寺は檜皮葺の仏堂1宇、板葺きの板倉1宇、他に板屋が9宇の小さな寺であった。759年に淳仁天皇によって石山寺の近くに保良宮が造営される際、その鎮護の寺院として増改築が行われた。その後、孝謙上皇によって再び平城宮に都が戻されると、保良宮は寂れ、石山寺だけが残った。

761年に「造東大寺司」のもと「造石山寺司」によって増改築が行われた時に、良弁は大僧都として全国の僧尼を統括する僧綱(そうごう)の最高位にあった。良弁は東大寺造営にも関与する傍ら、たびたび石山を訪れ、工事を指揮した。これが良弁と石山寺の伝説の元になったようだ。

良弁の出自は、「東大寺要録」には相模国漆部氏とあるが、「元享釈書」には「姓は百済氏、近州志賀里の人」ともある。2年ほど前、上田正昭先生は良弁が百済氏の出自で、百済系の"渡来人"の末裔と講演なさっていたのが懐かしい。

参考文献
1)綾村宏編;石山寺の信仰と歴史、思文閣出版、東京、2008
2)宇津野善晃監修:よくわかる仏像の見方、JTBキャンブックス、1998
3)古社名刹巡拝の旅15:湖南 滋賀、集英社、2009
4)朴鐘鳴編:志賀のなかの朝鮮、明石書店、東京、2003