第194弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 敦賀 気比神宮2013年03月01日 02時43分51秒










第194弾 のむけはえぐすり
古代の帰化人 敦賀 気比神宮

 琵琶湖の北端、北陸道の木之本ICから車で23Km。古代の日本海の玄関口を見なくてはという思いから、敦賀の気比(けひ)神宮まで行った。

気比の大鳥居は、嵯峨天皇の810年に造営されたが、1343年に暴風雨で倒れた。写真に見える高さ11mの朱塗りの大鳥居、通称赤鳥居は、1645年に佐渡の一本の榁の大木から作られ、柱の前後に支柱のある両部鳥居の型式で今に伝わっている。

写真の赤鳥居の右にある石碑には、「官幣大社気比神宮」とある。気比神宮は古くは笥飯(けひ)の字が当てられ、越前国一之宮、北陸道総鎮守と呼ばれていた。延喜式神名帳には「祭神七座並びに名神大社」とあり、この七柱の神は一座ごとに官幣の奉祭にあずかっていた。明治時代には官幣大社であった。市民からは「けいさん」と親しまれているというが、福井の発音だと、「けえさん」になるようだ。

気比神宮の祭神は、伊奢沙別命(いささわけのみこと)、仲哀天皇、神功皇后、日本武命(日本武尊)、応神天皇、玉妃命(たまひめのみこと)、武内宿禰命の七座である。

元々は伊奢沙別命が気比神宮に祀られていた神で、気比大神、御食津大神(みけつおおかみ)と呼ばれていた。社伝によると702年に仲哀天皇と神功皇后が本宮に合祀され、東殿宮に日本武尊、東北にある総社宮に応神天皇、西北にある平殿宮に玉妃命、西殿宮に武内宿禰命が祀られたという。今も四社之宮(ししゃのみや)とよばれ、本殿の左右に二社ずつ並んでいる。

「気比宮社記」によると、仲哀2年、日本武尊の子である仲哀天皇が神功皇后とともに新羅征討を気比神宮に祈願し、角鹿から穴戸に向かった。仲哀8年には、仲哀天皇が神功皇后と武内宿禰と安曇連に気比大神を祀るように詔(みことのり)をした時に、気比大神が玉妃命に神がかりして、「もし天皇が敵に遭ったとしても、刀を血で汚すことなく、敵が自ら帰順してきます」と神託があったというのだ。

さらに、古事記の仲哀天皇の段には、幼いホンダワケ(応神)と伊奢沙別命と武内宿禰が登場する敦賀の地名の由来話がある。

仲哀天皇の死後、皇位継承の争いで異母兄の忍熊皇子と籠坂皇子を殺害した武内宿禰は、幼いホンダワケを連れて、禊(みそぎ)の旅に出た。角鹿に来て仮宮を作ると、伊奢沙別命がホンダワケの夢枕に現れて、「私の名前とホンダワケの名前と取り替えよう」と告げた。ホンダワケは恐縮しながら、「その通りに致します」と答えた。すると、伊奢沙別命は「明日の朝、浜に来なさい。お祝いの品を差し上げよう」と言った。次の日の朝、ホンダワケが浜に出てみると、一の浦に鼻の先を傷つけたイルカが溢れていた。ホンダワケは「伊奢沙別命が御食(みけ・食料)とされる魚を私に下さった」と喜んだ。それからは伊奢沙別命を御食津(みけつ)大神と呼ぶようになったが、今は気比大神という。また、イルカの鼻から流れた血が臭かったので、その浦を血浦といったが、今は都奴賀(つぬが)という。

日本書紀の垂仁即位の条に、もう一つ、ツヌガノアラシトが登場する敦賀の地名の由来話がある。

額に角が生えているツヌガノアラシトが、船で笥飯に着いた。どこの国の人かと尋ねると、「私は大加羅国の王子で、都怒我阿羅斯等といい、またの名を于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)という。日本に立派な王がいると聞いてやって来た。初め穴門(あなと・今の下関辺り)に行ったが、そこの王はたいしたことはなかったので、出雲を経て、笥飯に来ました」と答えた。崇神がちょうど亡くなった年で、それから3年間、垂仁に仕えた。ツヌガノアラシトが帰りたがっているので、垂仁は「道を間違えずにやって来たら、先の大王に会えたのに、国に戻ったら御間城(みまき)天皇の名をとって、国の名前にしなさい」といい、赤織りの絹を賜り、国に返した。これが、任那(みまな)国の始まりである。その布を新羅が奪ったので、新羅と任那が争うようになったという。

気比神宮の境内に14社の摂社末社があるなかに、式内社が7つある。摂社はその神宮の祭神と縁故の深い神を祀った神社で、末社はそれ以外の神を祀る神社と区別される。摂社の筆頭が、赤鳥居からほぼ真っ直ぐ入った森の奥にある角鹿(つぬが)神社である。祭神は都怒我阿羅斯等命(ツヌガノアラシト)である。

それでは、ツヌガノアラシトは伊奢沙別命と関係があるのかというと、はっきりしたことは分からないらしい。「大日本史」や「敦賀郡誌」のように「ツヌガノアラシトは角鹿国造の祖健功狭日命(たけいさひのみこと)」のことだとみている本もあるという(谷川:122p)。

新羅と任那の抗争の始まりを伝える話の後に、もう一つのツヌガノアラシトの話が続いている。

ツヌガノアラシトが国にいる時、黄牛に農具を負わせて田舎に行った。牛がいなくなったので捜していると、村人に食べられてしまったという。その代価として、村人が祀っていた白い石を貰って持ち帰ると、石は綺麗な娘になった。喜んでいると、娘は東の国に逃げて行ってしまった。娘を探して日本にやってくると、娘は難波の比売語曽(ひめごそ)神社の神となっていたという話だ。

気比神宮には大伽耶から来たツヌガノアラシトや、新羅に行った神功皇后とその神話に登場する祭神が祀られていた。両方の神話に共通して登場する穴門(穴戸)とともに、敦賀は朝鮮半島と行き来する人々にとって、日本海の玄関口だったのだろう。今も、敦賀の地名の由来となったツヌガノアラシトは、写真のような銅像となって敦賀駅の広場に立っていた。

1)谷川健一編:日本の神々 神社と聖地(8)北陸、白水社、東京、2001
2)敦賀市立博物館:気比さんとつるが町衆 気比神宮文書は語る、2005
3)宇治谷孟:全現代語訳 日本書紀(上)、講談社学術文庫、東京、2009
4)倉野憲司校注:古事記、岩波文庫、東京、1998